〜第1章〜 水曜日 レアン-7
何の感情もこもらぬ、虚ろな返事が返ってくる。明らかに様子がおかしい。
急に我に戻って殴られては困るので、警戒しながらも立ち尽くす彼女に近づいてみる。
驚いたことに、先ほどまでの鬼神のごとき怒りの表情が消え、すっかり毒気の抜けた、どこか茫然とした表情をしている。視界に僕の姿が入っているはずなのに、視線は宙を彷徨い、こちらを見ようともしない。
心臓が一際激しく高鳴った。
寸前の出来事なのに、記憶がはっきりしない。
さっき僕は何と叫んだ?
「ボクニシタガエ!」
―そう言ったのか?
そして彼女は何と答えた?
激しい焦燥感が渦巻くのを感じた。ありえない仮定が僕の中で常識と理性を攻撃する。 まさか、そんなはずない、が何度も心の内で繰り返される。
「OK〜!いったん休憩にしましょう」
グラウンドからの声に、はっと我に帰る。どうやらチアリーダー達の練習が小休止に入るようだ。
今人目につくのはまずい。
咄嗟に判断するや、立ち尽くす彼女の手を掴み、校舎裏へ引いて行った。とにかく人目を避けようと考えると、思いつく場所は一つしか浮かばなかった。
そのプレハブ小屋は、先に学内を探索した時偶然見つけたものである。校舎裏と体育館に挟まれた死角にあるその小屋は、かつては体育用具庫として使われていた様だが、体育館改装の際、その役目を終えたのであろう。入口の鍵は壊れており、中を覗いた時には古いマットやボール入れが小屋の半分ほどを占めていた。
小屋に入るなり、柄だけのモップを立てかけ鍵代わりとする。これで当面人目は避けられるはずだ。
汗ばんだ手がまだ彼女をつかんだままだと気付き、慌てて離す。いつもの彼女なら、触るどころか見ただけでも嫌悪の表情を向けられるのに、ここまで為すがままについてきたのだ。
改めて彼女を見ると、やはり先ほどに同じく、力の抜けたどこか茫然とした感じで佇んでいる。
その時、明かり取りの窓から夕日が差し込み、彼女の顔を茜色に染める。
一瞬どきりとした。
今まで、僕は彼女を女の子として見たことがなかった。
何しろ事あるごとに憎悪をぶつけられ、僕を見る顔には常に侮蔑や嫌悪の表情が浮かんでいた。互いにとって不快な感情しか残さない、決して相容れることのない天敵。それが彼女との関係だった。
だが、初めて見る険のない表情は魅力的だった。東洋人に見られる彫りの浅い柔和な顔立ちは、どこか幼さなさを感じさせる。黒髪をポニーテールに結わえてるのは、走る時の邪魔になるからであろう。すっきりした白いうなじが覗いている。