隣のオンナ-10
「………あ………」
声をあげたのはほぼ同時で、その後は二人とも言葉に詰まった。
今度顔を見たら、昨日の後始末がいかに大変だったか文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに、余りにも不意を突かれて頭が真っ白になった。
昨日とはうってかわって、パリッとしたスーツに身を包んだパジャマ女は、仕事の出来るバリバリのキャリアウーマンという感じに見える。
油臭いエプロン姿の自分が圧倒的に不利な気がして、俺はいっぺんに気後れしてしまっていた。
そうでなくても、知り合ったばかりでいきなり喧嘩して、お互いマイナスイメージしか抱いていない相手に、どんなふうに挨拶するのがふさわしいのかなんて全く見当がつかない。
パジャマ女のほうもそれは同じらしく、俺に言うべき言葉が見つからないまま、視線を不自然に泳がせてま黙りこんでしまった。
気詰まりな沈黙を打ち破ったのは、新たなエレベーターの到着を知らせるチンというチャイムだった。
開いた扉から数名の男女がガヤガヤと降りてくる。
「―――あっ……天野先輩。あ……あの……今から、急遽飲み会することになったんですけど………先輩どうします？」
グループの中から一人の若いOLがパジャマ女に気づいて小走りに近づいて来た。
「あぁ……私は……」
「あのっ……でも、今日は好き寄りって感じだし……先輩お忙しかったら無理に付き合っていただかなくても全然いいんですけど……」
甘えたような舌足らずの話し方だが、パジャマ女の返事を遮るように言っ放ったその言い訳がましいセリフになんともいえない不快感を感じた。
なんだかマズイ場面に出くわしちまったな―――。
Ｔ産業の人間関係はえげつないと言っていた寺島の言葉が頭を過（よぎ）った。
それとなくパジャマ女の顔を見ると、俺のほうをちらちらと気にしながら、どう返事をすべきか迷っているように見える。
リストラされる直前のみじめな自分を思い出して、俺は急に息が苦しくなった。
俺は何も聞かなかったふりを装って、さっさとエレベーターの上行きのボタンを押した。
なんとなく目のやり場に困り、下を向いたままエレベーターが早く来てくれることを願う。
間もなく扉が開き、中から一人の男がゆっくりと降りて来た。
「あ、北原課長―――！」
パジャマ女に話しかけていた若いOLが甲高い声を上げる。
「あの―――今、天野先輩にたまたまお会いしたんでお誘いしたんですけど――――なんか、お忙しいみたいで……」
―――は？
パジャマ女はまだ何も言ってねーだろーが？
俺は思わずムカッときて顔をあげ、後ろを振り返った。
「――なんだよ天野、デートか？」
課長と呼ばれた男がパジャマ女に近づく。
「―――だったら断れ。今日の飲み会は全員参加。わかったな？」
強引な誘いにパジャマ女の表情は明らかに困惑している。
そりゃそうだろう。そんな飲み会に参加しても楽しい訳がない。
「あの……課長……でも私、今日は……」
「―――天野、これは業務命令だ」
押しの強い張りのある声に、ざわついていたロビーが一瞬シンと静まりかえった。
―――なんだコレ？
なんかわかんねーけど空気がすげぇぴりぴりしているのがわかる。
逃げるようにエレベーターに乗り込み、行き先ボタンを押す。
扉が閉まる寸前、課長と呼ばれた男がパジャマ女の肩に手を回しながら、振り返ってチラッとこちらを見た。
―――――あ、あの男。
そう思った時にはエレベーターがもう上昇を始めていた。
あいつ……昨日の！
その男は間違いなく、昨日ユウキにセクハラ行為をしていたあの爬虫類男だった。
じゃあ、あの中にユウキがいたのか？
全員の顔をじっくり見なかったことが今になって悔やまれる。
ちゃんと見たのと言えば、あのイヤミな若いOLと………あとは……パジャマ女ぐらいのもんだったが………。
……まさか……な……。
あの爬虫類男に肩を抱かれた女の後ろ姿を思い出しながら、俺は大きくかぶりを振った。
END