第10章-1 -1
今日も慧次郎たちの様子を伝える村からのメールがゆりえのPCに届いていた。
早希にはまだ妊娠の兆候はない。
(まぁ…仕方がないわ。こればかりは長期戦で臨まなくては)そう自分に言い聞かせながらゆりえはコーヒーをすすった。
それもこれも、何もかも早希の母親である早栄(さえ)が元凶なのだ。早栄の事を思い出すと今も苦々しい思いがよぎる。あろうことか山林の者ではない人間と懇ろになっただけでなく早希を身ごもり、村を出てその男と結婚してしまった。それが今の混乱に繋がっているのだ。
早い話が、お人好しの早栄は弦一郎に騙されたのだ。その証拠に早希が生まれた途端、弦一郎は早栄を顧みなくなった。挙句に妻妾同居の仕打ちに耐えられず、早希を残して村に逃げ帰ったのだ。
弦一郎は山林一族の血を引く早希を得て、自分の人生が光に満ちる事を確信して狂喜したに違いない。
だがそうはさせてなるものか。山林一族との盟約を破った弦一郎の元に早希を置いておくわけには行かない。早希は村のものなのだから。
早希が産まれるや否や、途端に早栄は弦一郎に蔑ろにされるようになった。
彼が外に子供を作ったのみならず、自宅に相手の女を引き入れた時、初めて早栄は弦一郎に利用されていた事を思い知ったのだった。
だが実業家として早くから成功していた弦一郎は、早栄に己の素行を責められても悪びれた様子もなく傲然と『出て行くなら一人で出て行け』と言い放った。弦一郎は早希と産まれたばかりの腹違いの長男の為にナニーを雇い『早栄には指一本触れさせるな』と厳命しベビールームには常時鍵をかけさせた。
しかも愛人の優子までが早栄に冷たく当たり、さながら自分が正妻だと言わんばかりに我が物顔で振舞っている。
打ちひしがれた早栄はある日、屋敷を抜け出して公衆電話から実家の兄、寿一に電話をした。
『叔父からおおよその話は聞いている。身一つで今すぐ戻って来なさい。そこからタクシーを使っても構わない』兄は静かに言った。早栄は改めて村の緊密な情報網に驚かされた。早栄がどれほど冷遇されているか、早い段階で兄の耳に届いていたのだろう。
情けない。恥ずかしい…。
早栄は矢も盾もたまらず自室に戻って手持ちの金の入った財布だけ握り締めると、文字通り身一つでそのまま東京駅に向かった。
屋敷には人がいたが見咎める者は誰一人としていなかった。早栄の存在はもはやその程度のものになっていたと言う事なのだ。余りに惨めで堪えても早栄の目からは涙が後から後から伝い落ちた。
電車を乗り継いで金が尽きるとそこからタクシーに乗った。
だが手荷物らしきものの何もない早栄を怪しんだタクシーの運転手は途中で『お客さん…お金、あるんでしょうね』と訊いて来た。
『いえ、今手持ちはありません。でも家についたらありますから…』そう説得し宥めすかして実家まで走ってもらった。運転手も早栄の鷹揚な振る舞いと品の良い身なりに、それ以上は疑わず、黙って早栄の指示する道を走った。鬱蒼と巨木の林立する山道を登って山頂近くにたどり着くと上背のある男がそこに立って待っていた。早栄の兄、寿一だった。
彼は運転手に『釣りは要らない』と帰り道の分まで握らせた。
『いやぁこれはどうもどうも…』と途端に腰を低くして走り去った。
寿一は早栄の背中に手をやって家に招じ入れながら『少し痩せたな…』と寂しそうに呟いた。
『兄さま、…ごめんなさい…本当に…私、馬鹿でした…』
寿一はくすりと笑って『いいさ。お前の気持ちは解る。辛かったろう。…だが仕方がないのだ。村の事情をお前も理解しなくてはな』と、少し厳しい表情を作って見せた。