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《glory for the light》
【少年/少女 恋愛小説】

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《glory for the light》-37

―40分ほど、経っただろうか。
歳の頃、三十前後と思しき男性医師は、睡眠不足と血糖値不足からくる一過性の症状だと診断した。
点滴を打って、仮眠を取れば良くなるらしく、百合は診察台の上に寝かされている。
僕はその傍らで、彼女の左腕に繋がれたチューブを眺めていた。一滴、一滴と、緩慢な流れでブドウ糖が注ぎ込まれていく。
百合は安らかな顔で眠っていた。夢を見ているのだろう。閉ざされた瞼の下で、時折、蠕動するように瞳が動くのが分かる。
穏やかな寝顔を見つめて、僕は後悔していた。僕が百合をこの街へ連れてこなければ、こんな事態にはならなかった。この街へ来て、僕はまだ何もしていない。彼女のためになるようなことは、何一つ…。
僕は溜め息を吐き、窓辺に目を馳せた。
南の街の広葉樹は、未だに青々しさを保っている。
(…んっ…)
百合が小さく寝返りを打った。わずかに溢れた声。
僕は点滴の針がずれなうよう、彼女の白い腕の位置を調節した。テープが貼られているから、外れることはないだろう。
毛布を掛け直した所で、ドアが開いた。
現れたのは、百合を診察した医者だった。
「寝ていますか?」
「ええ。たった今寝たところです」
それは良かった。そう呟く彼は、フレームレスの眼鏡の下で人の良さそうな笑顔を浮かべた。白衣を脱げば、保育士だと言われても納得できそうな人だった。
「困った状態でしたね」
彼の言葉に、僕は疑問を浮かべた。それに気付き、彼は訂正する。
「ああ、体じゃなくて…その」
僕は納得した。
「確かに、情緒不安定でしたね。ご迷惑をおかけしました」
僕が軽く頭を下げると、彼も負けじと頭を下げる。何処か滑稽な空気だ。
「いえいえ、こちらこそ。適切な処置もできませんで…」
適切な処置とは、治療や診察のことではなく、メンタル的なことを言っているのだろう。僕にしたって何もできなかったことは同じだし、第一、彼の仕事ではない。
病院に着いてから、診察を受けている間も、百合の精神状態は酷いものだった。
涙は時を追うごとに量を増し、ただ嗚咽を漏らして泣くだけで、先生の質問にも全く答えてくれない。
仕方がないので、僕が知り得る限りの百合の健康状態を教えた。寝不足の日が続いて、昨夜は夜通しバスの中だったとか、食欲は殆んどないとか、そんなとこだ。
言っている内に、僕の中で自己嫌悪が産まれてきた。ここまで百合を苦しめて、僕は何がしたいのだろう。僕のやってることは、彼女を振り回しているだけで、単なる独りよがりじゃないか…。
先生の質問にあらかた答えると、百合が落ち着くのを待った。鎮静剤を含めたブドウ糖の点滴が準備が完了するころには、百合は感情の高ぶりも少しだけ収まっていた(それでも話せる状態ではなかったけど)。
可哀相だが、点滴を注射する際には百合の体を僕が押さえ付けることになった。もっとも抵抗するだけの力は残っていなかった。
そして、今に至る。
「彼女…良く帰ってきてくれましたね。本当に」
彼は百合の寝顔を見つめ、そう言った。僕は不思議に思う。
あの喫茶店のおばさんといい、この人といい、何故百合のトラウマを知っている節があるのだろう。
白衣の胸元の名札を見て、彼の名前を確認した。前川弘紀。
「…前川先生。少し、伺いたいことが」
「先生なんてよして下さいよ。小さい街で、みんな人柄の温厚な人たちですから、割りと呼び捨てで通ってるんです」
彼はそう言うと、にかっと笑って見せた。歳の癖に愛敬のある笑顔だった。
「先生なんて呼ぶのは、新米の看護婦さんくらいです。でもすぐに先輩に洗脳されて、十歳近く年上の僕を呼び捨てですよ。まぁ、今じゃ私もそっちの方が落ち着きますけどね。」
子供のような笑顔で、彼は頭をかいた。周りの人が彼とフレンドリーに接するのは、街の人の性質ではなく、彼自身の性質だろうと僕は思った。
「ああ…悪い悪い。それで、聞きたいことって何?」
急にタメ口になっていたが、不快ではなかった(第一、彼の方が年上だ)。
「さっき、前川さん、言いましたよね。百合に、良く帰って来てくれたなって。しみじみと。いや、近くの喫茶店のおばさんもそんな感じでしたから。何か気になって…」
前川さんは困ったように頭をかいた。
「…それに関しては、私の口から言っていいものか」
「百合から聞きました。昔の恋人が死んだって。もしかして、この病院で?」
前川さんは不思議そうな表情を浮かべる。
「聞いたのに、知らないの?彼が死んだのは…いや、今の彼氏の前で、昔の恋人の話をするのも気が引くけど…」
彼は僕が、百合の恋人だと勘違いしているようだ。
「彼が死んだのは、この病院じゃないよ」
予想が外れた。
「…そうですか。僕はてっきり、この病院で彼が死んだから、百合は病院を嫌がっていたのかと…」


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