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ユビワ
【悲恋 恋愛小説】

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ユビワ-1

彼が視界に入るだけで、後ろめたい気分になる。
「葛城さん」
こんな風に、自分から声をかけなければならないときは尚更だ。
「頼まれていた資料です」
彼は差し出されたファイルを受け取り、パラパラと中身を確認し始めた。
彼の手は理想的だ。
その不精髭や染み付いた煙草の臭いからは想像しがたい、すらっとした長い指やうっすら浮き出ている血管、綺麗な爪。
「見とれるなよ」
彼はチラリと目線を上げた。
彼の台詞にはいつも、冗談とも本気とも捉えられてしまうような響きがある。
だから、私はその一つ一つに悩み、翻弄されなければならない。
「見てただろ、手」
彼はファイルを机に置き、椅子ごと私の方を向いた。
「俺の手、女の子に評判良いんだよ」
手だけではない。
一歩間違えれば『不潔』にも思えなくはないが、彼はもとの顔立ちが整っているし、さりげない装飾などに品のよさが滲み出ているので『ワイルド』だと、女性社員から人気がある。
「そうですか」
「おい、冷たいな。タイプじゃない?」
彼は不服そうに自分の左手を見つめた。
彼の手は理想的だ。
「はい、タイプじゃないです」
薬指に光る、指輪を除けば。
「おまえ、クビ」
言葉とは裏腹に、彼は楽しそうに笑った。




一目惚れ、ではなかった。
出会ったとき、私は確かに彼を好きだったけれど、その瞬間に生まれた気持ちではない。
出会う前から、彼を好きだった。
理論的には有り得ない話だけれど、恋愛と理論は対極にあると私は思っている。
「今夜、予定ある?」
偶然二人きりになったエレベーターの中、彼は前を向いたまま言った。
「あります」
「なんだ、残念」
彼が肩を竦めるのが、目の端に映った。
恋愛において世間体は重要でないと私は思っている。
いや、思っていた。
それは単純に、今まで世間から批判されるような恋愛をしたことが無かったから。
「明日も明後日も明々後日も、予定はあります」
言葉の終わりと同時に、ドアが開く。
私はエレベーターから降り、少し迷ってから振り返った。
「そうか」
彼は微笑み、ゆっくりとした動きで後に続く。
「彼氏?」
「恋人はいません」
「嘘だろ?有住みたいな美人が」
「お世辞、ありがとうございます」
お世辞なんかじゃないよ、と彼が私の横に並んだ。
「性格がキツイから、かな」
彼がニヤついて私の顔を覗き込む。
私はすぐに目を逸らした。
「それはないか。俺以外にはそんなことないみたいだし」
思わず振り向くと、彼との距離は数センチ。
対処できずに固まっていると、彼の方が静かに身を引いた。
ちょうど曲がり角から出てきた社員が、特に気に留めぬ様子で私たちの横を通り抜けていく。
「行こう」
人の心を掻き乱しておきながら、彼は平然と歩き出した。
ひどい男。
好きじゃなかったら、嫌いなタイプだ。


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