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『カイコノトキ』
【純愛 恋愛小説】

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『カイコノトキ』-3

「そっか」
そうだよね。
飲み会の席での台詞と全く同じフレーズ。それでも今回のそれには少なからず自嘲の響きが感じられたの僕の気のせいだろうか。
八月初旬の川べりは季節の割に暑くはなく、むしろ涼やかな風が僕と柊の髪を揺らしては流れていく。僕は伸びた前髪が撫で付けられていくことに少なからず爽快感を覚えていた。

「柊」
彼女を苗字で呼ぶのは何年振りだろう。僕と同じ違和感を覚えたのか、柊は少し固い表情を返した。
「四年ぶりだぞ?」
僕はすぐ隣に並んだ彼女とは反対の方向に煙を吐き出した。紫煙は瞬く間に闇色の夜空に霧散した。
「その四年間がお前だけにあったんじゃない。髪も伸びれば酒も飲む。煙草だって例外じゃあない」
冷たい言葉だな。
自分で言いながらも僕は自らを嘲った。
けれど、わかっている。わかっているから言ったのだ。
一度交わった直線は、何か別の力に作用されない限り、二度と交わることはないのだ。ただ、時間が経つにつれて、徐々にその距離を広げていくことはあっても。
「…うん」
彼女は俯き加減に頷いた。
「そうだね。四年間は、孝介くんにもあった」
しかし、顔色は伺い知れない。
「でも、私にもあった」
川沿いの道は、もうすぐ終わろうとしている。あと数メートルに迫ったコンクリート造りの短い橋を渡り、横断歩道を渡ってすぐにあるこぢんまりとしたマンションの三階の角部屋が彼女の実家。
「四年のうちに、髪型を変えた。そのうち、何回か色も変えた。明るくしたり、黒に戻したり。ピアスをあけて、ちょっと背伸びもしてみた。恋だってしようとした。ダメだったけどね。それから──」
彼女はそんなに高くないパンプスのヒールで灰色の硬い橋をカツカツと叩いた。それを渡り切った先の横断歩道の信号のスイッチを入れたところで足を止め、言葉を切った。
「私は『柊』じゃなくなった」
振り向いた彼女からは表情が消えていた。点滅していた黄色いシグナルは青く色を変える。
「…どういう──」
こと?と続けようとした僕を、彼女は待たなかった。
「もう私は、四年前の私じゃないよ」
言葉を選びあぐねる僕に、彼女は微笑んで首を振った。その笑顔に陰りが見えるのは、夜の帳のせいではない。
「お母さんの幸せ。それは私の幸せ。でも、お母さんの幸せの中にもう私はいない。そして私は、ここには戻ってこれない。今日で最後。孝介くんとも」
信号は、もう一度黄色へと変わり、直ぐさま赤へと切り替わった。
案山子の如く立ち尽くす僕に背中を向けた彼女は、早足に白黒の道を渡った。それを見送った信号は通りもしない車のために、慌てたように黄色い点滅を始めた。

言葉を。

人が神に願うのは、こういうときなのだろうか。
僕は願った。
見えもしない全知全能の神に。
僕に、僕に言葉を下さい、と。

「早希ッ」

こんなもんか。僕は自分の神に失望した。
「待てよ、お前、また逃げるのか?」
何だこれは。何を言ってるんだ、僕は。
「四年前と同じじゃねぇか。人をコケにしやがって、いつまで俺を無視し続けるつもりだ」
彼女の足が止まる。小さな背中がびくん、と震えた。無知無能な神に感謝すべきだろうか。
もう後には引けない。所在なげに立っている信号機を無視し、歩道を駆け抜け、僕は早希の背中の後ろに立った。そして乱暴にその左腕を掴むと、一気に袖を引き上げた。ぷつん、という軽い悲鳴とともに袖のボタンが弾け飛んだ。


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