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忘れてしまった君の詩
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忘れてしまった君の詩-19

 九時十五分。
 僕は最後の難関である、ネボスケ三号の部屋のドアをノックした。
 僕の日常生活の中で、最も気乗りしない瞬間、それが今だった。
「香織ちゃん、起きてる?」
 応答なし。
「香織ちゃん?」
 もう一度、少し強めに呼び掛けてみるが、やはりダメだった。
 僕の耳には、屋根を打つ雨音が聞こえるくらいで、彼女の部屋からは物音一つしてはこなかった。
(さむっ……)
 思わず、思い出した床冷えに、僕は震えた。もう少し、暖かい格好をしておくべきだったな、と後悔する。と、
「お兄ちゃん……」
 突然、かけられた言葉に、文字通り、僕は飛び上がった。おかげで体どころか、すっかり肝も冷えてしまった。
 見れば、香織ちゃんが薄く開けたドアから顔を覗かしている。
「か、香織ちゃん…おっ、おはよう……もう朝だよ」 僕は必死に笑顔を取り繕いながら、どうにかそれだけを口にした。
 頷いて、香織ちゃんも部屋からゆっくりと出てくる。
 女の子らしい、フリルつき花柄パジャマを着た彼女は、普段の元気な姿が嘘のように無表情だ。心なしか足取りも重く、顔色も血の気が引いて真っ青である。 毎朝、櫛を通して念入りにセットしている髪も、寝起きのためにまだボサボサのままだった。
 お化けも避けて通りそうななりではあるが、病気というわけではない。これがいつも通り、彼女の朝の正しい姿なのだ。何度見ても、慣れるということはない。
 部屋を出てからは階段のへと脇目も振らず、フラフラと向かっていた香織ちゃんだったが、何を思い出したのか、足を止めて僕を振り返った。
 そのまま、僕のことをじっと見つめてくる。
「なっ、何…?」
 出した声が知らず知らずのうちに震えていた。我ながら情けないことだが、しょうがない。朝の彼女は貞子級に恐いのだ。
 やがて彼女は相変わらずの無表情のまま、低く呟いた。
「おはよ……」
 言った傍から彼女は、こちらの返事も聞かずに階段を降りていく。
 僕は香織ちゃんの姿が見えなくなってから、その場にへたりこんだ。
「こっ、恐かった…」
 時刻は九時三十分、少し前。
 今日も長い一日がまた始まろうとしている……。

 正午過ぎ。
 朝方降っていた雨もようやく止み、雲の隙間からは太陽の顔を拝むことができるようになった。
 家族全員に、飯を食わせた僕は、風呂に入ると出かける用意を整えた。
 Tシャツの上に、デニム地のジャンパーを引っ掛け、スニーカーを履く。
「ちょっと出かけてくるから!」
玄関から家の奥に叫ぶと、居間から出てきた父さんが、すっかり出かける準備の整った僕の姿に、目を丸めた。
 香織ちゃんは僕と交代でシャワーを浴びているので今はなく、おばあちゃんは僕より先に老人会の寄り合いで家を出ていた。
「どこに行くんだ?」
「ちょっと人と待ち合わせてるんだ。ついでに、買い物も済ませてくる」
「そいつはいいが、あまり遅くなるなよ」
「わかってるよ。それじゃあ、行ってきます」
 玄関を出ると暖かな陽光が僕の目蓋を焼いた。
 どうやら、雨の心配はもうなさそうだ。
 僕はママチャリに跨がると、勢い良くペダルを扱ぎ始めた。
 目指すは駅前商店街。そこにある、一軒の喫茶店に僕の待ち人がいるはずだった。

 昨夜のことである。
 勇介と香織ちゃん、二人の話を聞き終え帰宅した僕は、夕飯の支度もそこそこに部屋の子機から英里先生の携帯に電話をかけた。
 数回の呼び出し音のあと、電話口から先生の声が聞こえてきた。
『―もしもし?』
「あっ、あの、竜堂ですけど…」
 緊張のせいか、変な声が出た。もう一度、落ち着いて言い直す。
「すみません……竜堂龍麻です」
『ああ、竜堂か。どうしたんだ?』
 そう言った先生の裏では、何かの音楽が流れている。クラシックではない。だけど、どこかで聞いたことのあるような、ピアノの調べ。
 もしかしたら、仕事も終わって家でくつろいでいたところなのかもしれない。
「すみません。今、いいですか?」
『ああ、構わないぞ。ちょうど、こちらも一区切りついたところだからな』
 やっぱり。
「すみません。おくつろぎのところを…」
『さっきから謝ってばかりいるな、お前は。そんなことでは、すぐにハゲてしまうぞ?』
「ははっ、それは勘弁」
 乾いた笑いが出た。いくらなんでも、この歳でハゲたくはない。
 電話の向こうでも、先生が笑っている気配がする。 僕達はしばらく、他愛無い話で会話を楽しんだ。
 向こうでは相変わらず、ピアノの独奏が続いている。なんだか、胸が熱くなるような、切なくなるような不思議な感じ。
 いったい、何の曲だろう?
 そんなことを考えているときだった。
『それでどうしたんだ、今日は?まさか、世間話をするためにかけてきたわけではないだろう』
 核心を突く質問。だけど、わりとスムーズに、僕はその言葉を口にできた。
 それまでの会話で、だいぶ、リラックスすることができたのかもしれない。
「実は折居って、相談したいことがありまして」
『勉強のことか?』
「いえ、個人的なことです」
『……』
 しばらくの間。どうやら、何かを考えている様子。
『長くなりそうか?』
「はい」
 また何かを考え込むような沈黙があって、先生は驚くべき提案をした。
『よし、直接聞こうじゃないか』
「えっ!?」
『お前、明日は何か予定はあるのか?』
「いえ、ないですけど…」
『なら、駅前にある「ラプンツェル」を知っているか?』
「知ってますけど…」
 矢継ぎ早の質問に、僕は完全にペースを握られていた。
 そんなこんなで正気に返ったのは、
『明日、午後一時。ラプンツェルにて待ち合わせ』
 なんて約束を交わしてしまった後のことだ。
「…まっ、いっか」
 僕は通話の切れた受話器を持ったまま、呟いた。
 とにもかくにも、目的は果たされたわけだしね。


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