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忘却の日々
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忘却の日々-5

彼のなかで、私は特別な存在になれたのだろうか。
薄れゆく意識の中で、彼女は思う。
どうして彼との時間を何よりも大切にしたのだろう。
自分の命が限られているのを知りながら、私は何を期待したのだろう。
涙が溢れてきた。
もう自分の意志で体を動かすこともできず、涙は無力に頬を流れる。
『死』は孤独だ。
怖い、だから私は誰かのなかに留まろうとした。
そう、彼のなかに留まろうとしたんだ。
彼は過去の喪失を怖れていた。
私は未来の喪失を怖れていた。
だから今その時を互いに埋め合わせて寄り添った。
それはとても幸せな時間だった。
このまま静かに彼の中から身を引こう。
さっきまでそう思っていた。
『死』はすぐ傍にある。
一人でそれに立ち向かうには、あまりに無謀だと知った。
やっぱり最後は誰かと一緒にいたい。
ひとりはいやだ。
ひとりはいやだ。
ひとりは・・

ガラ

あぁ、来てくれた。
私のことを忘れていなかったんだね。
「雫、雫!私だ」
聞こえてるよ、聞こえてる。
「待ってくれ。なぁ、友達だろ?」
頬に落ちて混ざる、私と彼の涙。
「・・・ねぇ・・・」
彼は私の手をとりながら、嗚咽する。
好きよ。
あなたのことが、好き。
「・・・明日があるってことは・・・・すばらし・・いわ。・・・だから・・生きて・・」
つらくても、生きるのよ。
私の分まで。
「そんな事言うなよ。なぁ、またあの公園の木のしたで話そうよ。まだいい足りない事がたくさんあるんだ。なぁ、なぁ!」
「お願い・・・きいて・・くれる・・?」
良いわよね?
最後くらい我侭を聞いてもらっても。
さよなら。
私はいつまでも忘れないよ、あの日々を。
だから、
「お願い・・・きいて・・くれる・・?」
彼女は苦しそうに言った。
私は握る手に力を込めた。
柔らかな微笑みは、もう無い。
それが『死』なのだろうか。ならば私が考えてきたソレは、どんなに軽かったのだろう。
ずっと雫は背負ってきた。死の重み。
握り返す力に、命は無く。
だからもう、それが最後の言葉だと分かってしまった。
「あぁ、聞くよ」
ありがとう、雫。
彼女は言った。

「私を忘れないで」

私は押し寄せる悲しみの衝動を抑えられず、天井に視線を向けた。それでも止まらなかった。落ちる、涙。
答えられるのか?
きっと私は忘れてしまうだろう。
彼女のことを。
彼女との日々を。
過去は霧のように頼りなく。
それでも。
それでも。
彼女が欲しいのは事実ではない。
『死』は孤独。
だから私は、それに打ち勝つほどの安らぎを君に。
雫の目を見据え、柔らかに微笑んだ。
「絶対に忘れないよ」
雫は安らかに目を閉じた。
それは、いつか忘れゆく、忘れてはいけない悲しみ。

1993/5/3
「ここですね」
雫の母親は、静かに尋ねた。
「はい」
私はその大きな木を見上げながら頷いた。
「ひとつ聞いていいですか?」
「はい?」
「雫が、ここで過ごした日々は幸せだったでしょうか?」
私は目を閉じた。
もう遥か遠い日々のように、記憶は砕け始めていた。
「分かりません」私は答える。
「けれど、私は幸せでした。だから彼女も幸せだったら良いと、そう思います」
母親は暫く虚空に目を泳がした後、納得したように頷いた。「そうですか」
「あなたがやってください」
言って彼女は私に瓶を手渡す。
私は蓋を開けた。そして傾ける。
雫。
私は、君を忘れてしまうかもしれない。
けれど君といた時間は、確かに存在したんだ。
その指定席に、灰をまく。
未来永劫、きみと共に。
そして私は、明日を生きるよ。
君のいない、明日を生きる。
それが君から教わったものだから。
さよなら。
・・・・さよなら。
ざあぁ、と木々が泣くように揺れた。
無風のなか、何かに共鳴するように。
確かに、泣き揺れた。


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