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忘却の日々
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忘却の日々-3

1992/11/23
「こんにちは」
いつもの場所に座って弁当を食べていた。すると長髪の女性が話しかけてきた。私は一瞬、考える。そして霧がかかった記憶の中から、彼女の名前を救い上げた。
「こんにちは、雫さん」
にっこりと彼女は笑った。その微笑と、こうして毎日会うようになってどのくらいの月日が経ったのだろう。
「今日は市販のお弁当ですか?」
「えぇ、唐揚げ弁当です」
「それ、好きなんですね」
そう言って、彼女はフフ、と笑った。
「そうですか?」
「昨日も一昨日もそれでしたよ、安達さん」
言われて、そうだったかもしれないと気づく。その哀しさ。
「あ、ごめんなさい。思い出せなかったかしら」
彼女は私の病気を知っていた。いつか自分で話したのだろう。全てを知って、それでも傍に居てくれる彼女に、私は心から感謝する。
「今日は、ここに来る途中に白い猫を見かけました。とても綺麗な猫でしたよ」
「今朝聞いた音楽が、妙に心に残っています。タイトルは何だったけかなぁ」
私は言葉を紡ぎ続ける。今日を生きた、その証を誰かに見せるために。彼女は静かに相槌を打つ。全てを受け入れていく。
それは穏やかな日々。
長く続く、この先の人生の中で私は、もう誰とも同じ時間を共有できないのだと思っていた。けれど、それは違うのかもしれない。
「私は、自分の日常を知ることができないけれど、貴方が覚えてくれているのならそれでいいのだと思います」
「はい、私は覚えていますよ。例え、あなたが自分自身を忘れてしまっても、私はあなたを忘れません。だから安心してください」
じわり、と涙が目に溜まった。
私は悟られないように、空を見上げた。
「だからその代わり、あなたは私のことを見ていてくださいね」
彼女は小さく呟いた。
雲が流れていた。
雲が流れ続けていた。
その辿りつく先に、私はいるのだろうか。
「でも、こう言ったら怒るかもしれませんけど、少し羨ましいです」
彼女は言った。
「あなたは、毎日違った風景を見ることが出来るのですね」
きっと、彼女には分からない。
それはとても怖いことなんだ。
私は何も言うことが出来ずに黙り込んだ。
昼休みの時間が終わったのだろうか。公園にいる人の姿がまばらになってきた。私は辺りを見まわす。いつも感じる孤独感が、そこにはあった。
「いつか言ってましたね」
彼女を振り返る。
「『途切れ途切れに、毎日生きている。今日の私は、今日死んでしまうんだ』って。けれどそれは悲観すべきことなのかしら?何度もまっさらな人生を、あなたは過ごすことが出来る。新鮮な毎日が、あなたを待っているのですよ」
私は知らず、頷いた。
そんな考え方を今までしたことがあっただろうか。
そうだ、私はいつも真っ白なノートを持っている。
その中に、何を描こうか。
考えれば、ワクワクするだろう?
起こること全てが初めてなんだ。
「そうだね、雫の言うとおりだ。私は何を怖がっていたんだろう」
彼女は優しく微笑んだ。
「初めは誰だって躊躇するものよ。けれどそれは楽しいことじゃないかしら?」
あぁ、きっとそれは楽しい。
世界は、知らないことで満ちている。
明日への希望で、絶望を塗り潰せばいいんだ。
「ありがとう」私は言った。「君には心から感謝しているよ」
「いいんですよ。友達じゃないですか」
それは冬の訪れを待つ ――― 喪失を越えた、最初の季節だった。


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