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ビターチョコレート
【家族 その他小説】

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ビターチョコレート-2

「ただいま」
 午後10時。遠慮がちに扉を開いて中に入った。灯りが点いていたので、安心して足音をたてる。居間のほうから、ぱたぱたと走る音が聞こえてきた。
「おかえり!麻以ちゃんと実加ちゃんは元気だった?」
 母だった。何故か派手なショッキングピンクのパジャマを着ている。小柄な母が、一層小さく見えておかしい。
「元気だったよ。2人とも相変わらず。それより、何なの?それ」
 私がパジャマを指差しながら訊くと、母は笑った。
「おかしいでしょう?おばあちゃんに貰ったのよ。何かねえ、近所のデパートの福袋に入っていたんだって。でも、おばあちゃんには派手すぎるから、お母さんにどうかって。でも、お母さんにも派手よねえ。いやあねえ」
 そう言ってけらけらと笑った。
「じゃあ何で着てるのよ」
「だって、勿体無いじゃない。折角着れるんだもの。それにね、結構着心地いいのよ」
「趣味悪い福袋ね……」
 居間に行くと、弟の玲人がせっせと仕事をしていた。弟は今年から社会人になったばかりの新入社員で、慣れない仕事に戸惑いながらも一生懸命に頑張っている。まだ要領が掴めないらしく、仕事を持ち帰ってようやくこなしていた。
「お、姉さん。お帰り」
 玲人が手だけあげて言った。顔はずっと書類とパソコンを覗き込んでいる。
「何の書類?随分大変そうじゃない」
 玲人は苦笑した。
「書類って言うほど大したもんじゃないよ。要はさ、雑用なんだよね。ちなみに今作ってるのは社の人間の名簿。新入社員と、変更のあった人間の分だけ追加して、データベースに入力しろってさ。この紙の束は、新入社員の提出物と変更届ってわけ」
「へえ、ちゃんと仕事してるんじゃん」
「でもさ。俺、営業の方に採用されたんだよ。何でこんなことやらされるのか解らないよ。一般事務の人なんてコピーとって喋ってるだけ。それで、営業の俺に仕事させるんだから、給料泥棒もいいとこだよ」
「それは、どうかと思うなぁ」
 私たちが文句をたれていると、母がお茶を淹れてきた。
「まあまあ。仕事があるだけありがたいじゃないの。辛抱、辛抱」
 母はそう言うが、玲人はふて腐れていた。それでも、月曜には出来上がったものを会社にきちんと提出するのだ。みんな、不満を抱えながら、その流れに乗る。
「そうは言ってもさぁ。もう5月だって言うのに、未だに名簿のひとつも作りきれていない会社って先行き不安だな」
 玲人がつぶやく。
「そんなもんよ。今の時代、そういう小さな会社はいくらでもあるの。大事なのは、その中でも自分を持って生きていくこと」
「お。何かかっこいいこと言うじゃない」
 母さんはたまに鋭いことを言う。人生経験の賜物なのか、私たちより多く生きてきただけのことはあった。
「確かテレビで誰かが言ってたわ」
「何だ、受け売りかよ。はあ。まあ、頑張るしかないから、やるんだけどさ。あ、そうだ母さん。冷蔵庫にさ、昨日俺が焼いたプリンがあるだろ。折角だから、姉さんに食べさせてよ」
 玲人が書類をまとめながら言った。今日はもう、仕事はやめるらしい。
 玲人は母に似て、似てと言うべきか、チョコレートや甘いものが好きだった。そして、お菓子作りという趣味まで持っていた。中学生か高校生の頃、玲人が作ったお菓子を家族で良く食べていた。最初は不味かったのだが、父や母が褒めながら食べていくうち、本当に美味しいものを作るようになった。
「はいはい。ちょっと待っててね」
 再び母が台所へ向かった。ショッキングピンクのパジャマがひらひらと翻った。
「あんた、あれどう思う?」
「どうかと思う」
 苦い顔で玲人は答えた。わたしも顔をしかめた。
「それにしても。あんたもお菓子作るの好きだよね。何でそっちの道を目指さなかったの?」
 母が運んでくれたプリンを食べながら訊く。プリンは甘くてとても美味しい。こんなに美味しく作れるくらいまで頑張れるんだ。どうせなら、好きな道を選ぶほうが断然いいと思った。
「好きなんだけどさ、好きなだけでやっていける程甘くはないだろうし。それにさ、父さんが急に倒れて、そのまま居なくなっちゃって。やっぱり俺が長男だし、安定した仕事に就こうと前から思ってたんだ」
 意外と考えていたんだ。わたしはびっくりした。わたしが18歳の時に就職して家を出て以来、玲人とこんな風に話すことはなかった。知らないうちに大人になっていたのだ。
「それに、姉さんだってそうだろ?好きじゃないことでも辞めないで、仕事、続けてるじゃないか」
「今は、好きよ。ただただ同じことの繰り返しでも。ひたすら同じ日常を少しの楽しみを持って過ごしていく。幸せっていうんだよ、こういうの」
 そう言って笑いあう私たちを見て、母がしみじみと言った。


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