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疼きに喰い込む赤い縄
【その他 官能小説】

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水槽の中-1

 体の痛みと共に、心の痛みも和らいでいく。そう思っていた。しかし、現実は逆だった。
 時間が経つにつれ、日が過ぎるにつれ、幸雄さんを裏切ってしまったという罪悪感は私の心を蝕み、広がっていった。
 「久しぶりだね、二人で映画なんてさ。」
 隣の席で幸雄さんがはしゃいだ声を出した。
 私の様子があの日以来芳しくないのを気に病んだ彼は、無理をして平日に休暇をとり、私を外に連れ出してくれた。私の不調は精神的な要因によるところが大きいと、彼なりの分析で判断してのことだろう。土日を避け平日にしたのも、混雑で私が疲労するのを心配してくれたのだと思う。
 そんな幸雄さんの気遣いが何よりも嬉しかった。ただ…。
 「去年、主婦たちの間で爆発的な人気を誇ったテレビドラマの劇場版なんだってさ。正直、僕にはよく知らないんだけどね。」
 行きずりの男とふとしたはずみで関係を持ってしまった女。彼女は夫への愛と男への切なさの葛藤に苦しむ。穏やかな夫婦生活を望みながらも、体の関係を断つことが出来ないでいるうち、ついに背徳の行為が夫にバレてしまう。幸せな家庭を失い、男にも逃げられそうになった女は、狂気の末に男を殺してしまうという、不倫ラブストーリー。
 以前ならただの妄想としてそれなりに楽しめただろう。そして夫との純粋な愛の生活にあらためて喜びを感じたに違いない。
 実際、原作の連ドラが放送されていた時、私はお菓子を摘まみながらソファーに寝転んで、バカな女だと上から目線で見下し、非現実の物語として気楽に眺め、時に笑い、時には泣いて、毎週欠かさず見ていたのだ、夫の帰りを待ちながら。…激しいシーンに煽られ、自分の指を楽しんでしまったことも何度かある。
 でも。
 今の私には最悪の選択だ。
 上映中のほとんどの時間、私は俯いて過ごした。特に、夫への裏切りに心を痛めつつも体の疼きに堪えかねて男に身を委ねてしまうシーンでは、目を開けている事すら出来ずに拳を握りしめて耐えた。
 「非道い女だねえ。作り話とはいえ、なんだか腹が立っちゃったよ。それに、実際に居るらしいよ、貞淑な妻の仮面を被りながら他の男との情欲に溺れて愉しんでるやつが。」
 映画の後、同じビルの中にあるパスタ店で昼食をとりながら、幸雄さんは半ば本気で怒っていた。
 「そうね、本当に…非道い女ね。」
 大好きな三種のチーズパスタが喉を通らない。幸雄さんはそれに気付いているはずだが、敢えてそのことを言わないでくれている。
 「僕はね、直香。君が僕の人生に居てくれるということをどれだけ幸せに感じているかを、言葉では言い表せないくらい感謝しているんだ。ありがとう、僕の直香。僕の、直香。」
 「な、何よあらたまって。私だって幸雄さんが居てくれて…」
 重く、苦しい感情が喉を突き上げてきて、それ以上言葉を発することが出来なかった。
 幸雄さんは向かい側の席で笑顔を広げている。私が感極まったと思っているようだ。
 「さ、行こうか。そろそろ予約の時間だ。」
 「ええ。」
 「急かしてごめんね。」
 「ううん、いいの。私が行ってみたかった所だし。」
 彼は微笑みの余韻を残しながら先に席を立ち、会計へと向かった。
 私はほとんど口に運ばれることの無かったパスタをうつろな目で見つめ、彼の後を追った。

 「うわあ…。」
 その一瞬だけ、私は笑顔を取り戻した。それほどに見事だったから。
 「すごいね…。」
 幸雄さんも感嘆の息を漏らした。
 街の中心から車で15分程の所にある水族館。それは去年出来たばかりの最新のデートスポットとしても人気があり、時間指定のチケットを予約しないと平日でも入館が保証されないという盛況ぶりだ。
 特に、ゲートを入ってすぐの所に突如目の前いっぱいに広がる超巨大水槽は人気が高い。
 世界一の鑑賞用ガラス面積と水槽容積、そして魚の種類と数を誇り、四階建て水族館の一階から三階までをぶち抜く高さがある。四階部分は水面を見下ろせる回廊になっており、天井は開閉式ドーム。その豪快な設計にも圧倒される。
 「向こう側のガラス窓がよく見えないくらいに大きいね。だからかなあ、水槽だという事を忘れるぐらい、魚たちはみんな悠々自適に泳いでる。」
 「ええ。それに、外敵が存在しないという意味では、とても幸せな世界かもしれないわね。」
 「なるほど、そうだね。」
 幸雄さんは顔がくっつくぐらい水槽に近づいて上を見上げている。まるで子供のようだ。私も同じように見上げてみた。高い高い水面の向こうに青空が揺れている。
 「そういえばこの前ね、独立して会社を始めた元同期の奴と飲んだんだけど、似たようなこと言ってたよ。」
 「へえ、どんな。」
 「会社の中に居た時には気付かなかったけど、外に出てみると、いかに自分が組織に守られていたのかを痛感する、って。」
 「守られていた?」
 「そう。窮屈だ、自由が無い、っていうのはね、自分だけの力で自分や家族を守らなくてよいという安心を得る事との交換条件なんだ。自由が欲しいなら、全てを自分で勝ち取り、守り、維持しなければならない。」
 …私は今、幸雄さんに守られ、二人の家という安全な水槽で暮らしている。そこからはみ出してしまったら、私は一体どうなるのだろう。
 「お、餌の時間だ。」
 ウェットスーツに身を包んだ係員が水槽内に降りてきた。すると、それまで自由気ままに泳ぎ回っていた魚たちが一斉に彼女の方に突進し、群がっていった。
 「デッカイ水槽の中でそれなりの自由を与えられているのに、欲求の前には無力なんだな。食欲に行動を縛られ、恥も外聞もなく否応なしに餌に引き付けられていく。」
 幸雄さんが私の方を向いて皮肉っぽく呟いた。
 「まるで、女の色香に惑わされて全てを捨ててしまう男みたいだな。さっき見た映画は男女逆だったけど。」
 私は俯いて唇をキュっと結び、彼から目を逸らした。


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