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『ティースプーンの天秤』
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『ティースプーンの天秤』-2

僕は薄汚れた堤防の先に立ち、少しだけ怖がりながら、足元の灰色の海と、遠い真っ直ぐな水平線とを見比べている。隣には祖父がいて、祖父は時々僕の肩を突然強くゆすって脅かした。その度に僕は大げさに驚いたふりをする。でも、祖父の皺だらけだけど大きくて力強い手はしっかりと僕を掴んでいて、僕は、本当は少しも不安になったりはしていなかった。僕はそして、祖父の顔を見上げる。しかし、僕の記憶の風景の中に、当時の祖父の顔がうかんで来ることはもう無い。変わりに、スーツを着たモノクロの祖父の顔がうかんで来るだけだ。遺影。無理も無いかもしれない。僕はもう実際の祖父の顔を見ていた時間よりも、遺影に映った祖父の顔を見ている時間のほうが長くなってしまっているのだ。

不思議なことだ。祖父のことを思い出そうとしても、浮かんでくるのは祖父の顔ではなく、不自然なほど真っ直ぐな水平線、灰色の汚れた海、少しだけ白の絵の具を溶かし込んだようなぼやけた青の空、不快ではないけれど独特のにおいのする堤防、それと太い木の枝のような色黒な手の指だ。

その情景が五歳の時に見たものなのか四歳の時に見たものなのか、それとももっと前に見たものなのかは思い出せないけれど、とにかくそのころの僕は、祖父と見た海に、何かしら特別なものを感じていたのだと思う。その頃の僕にとっては、歩いて十五分のところにある海でも、十分に非日常な場所だったし、腕相撲で僕が両手を使ってもびくともしない祖父の腕は、僕をどこへでも導いてくれる魔法の腕だった。

そして今、もう僕はあの頃の祖父よりずっと腕力があるだろうし、誰に手を引かれなくてもどこへでも行ける。それに思い出す祖父の顔はモノクロだ。
それでも、思い出の中で永久に僕は祖父に腕相撲で敵わないし、思い出の中の風景は僕の心の中にしっかりとそのささやかな居場所を確保している。


サトウと僕はよく似ていた。
二人とも、独りでいることが好きで、よく本を読んだ。
勿論二人の間には少なからず違いはある。僕は長編小説を好んで読み、サトウは短編小説を好んで読んだ。僕は他人と二人きりになるのが苦手だったし、サトウは大人数で話すのが苦手だった。
僕はサトウとだけは何のストレスも感じずに同じ時間を共有することができた。
一緒に居たとしても、必要であればその存在を忘れることもできるし、話したかったら靴べらの形についてだって一晩中話し合っていることもできた。

実際には僕らは本について話すことが多かった。
サトウが読む本は小説に限られていた。
「小説のいいところはね、それがフィクションであるところだ。」
サトウは言う。
「つまり?」
「そこには決して嘘がない。」
「なるほど。」
僕が納得したのを見るとサトウは続けた。
「実際にあったことについて書かれたものには必ず大なり小なり嘘が散りばめられているんだ。そしてそれは間違っていない。そこには嘘をつく必要がある。」
「でも、フィクションにおいては嘘をつく必要は無い。」
「そういうこと。」
僕は枕に頭を沈めなおした。低いボリュームで流れる歌に耳を澄ます。僕はほとんど音楽を聴かないのだけれど、サトウの部屋はいつも何かしらの音楽が流れていた。
「つまりさ、君は嘘がきらいだ。」
サトウに言った。
「そうだね。」
「それは嘘をつかれることに限定して?それとも…」
「もちろん、自分が嘘をつくということも。」
サトウは僕が言い終わるのを待たずに答えた。
僕だってその意見には賛成だった。いつだって周りに、そして自分自身に対して誠実でいたいと思っていた。しかし、そううまくは行かないことももちろんある。


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