投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

『ティースプーンの天秤』
【その他 その他小説】

『ティースプーンの天秤』の最初へ 『ティースプーンの天秤』 2 『ティースプーンの天秤』 4 『ティースプーンの天秤』の最後へ

『ティースプーンの天秤』-3

あの人の前では、僕はいつも嘘をついていたようなものだ。
彼女は本当に小さく笑う人だった。ほとんど顔を崩さずに軽く唇の両端を持ち上げて、整った前歯から、ほとんど聞こえるか聞こえないかという音で、スッと息を漏らす。それは、どことなく悲しげな笑顔だった。実際、それは悲しさを多分に含んでいた。いや、それは悲しさを逃がすためのものだったのかもしれない。彼女が笑う時に吐き出す息はほんの少しで、その中にはきっと悲しさや寂しさも含まれていて、だから僕は彼女に何度も笑ってほしいと考えた。ほんの少しずつでも、彼女の悲しみが減っていってくれるなら。

「人はね、誰もが幸せになりたいと思っているわけじゃないのよ。」

いつだったか彼女はそう言った。その台詞を聞いた時、僕はたまらなく悲しくなり、同時に酷い罪悪感のようなものに苛まれた。

彼女のことについて語る上で、欠かせないエピソードがある。というよりは、彼女のほうこそがそのエピソードの付属物であるに過ぎないようにも思える。

僕にとっての、最大の損失についての話。

僕には一人、五つ上の兄が居た。居た、過去形だ。つまりはそういうことだ。
彼はとてもよくできた人間だった。大抵の事は彼にかかれば造作もないことだった。
子供の頃からだ。一度も転ばずに自転車に乗ったし、中学生の時には常に定期テストで一番を取り続け、一流の高校、大学を経て、一流の企業に就職した。光り輝いてはいないが、シミ一つ無い経歴だ。そして、それに相応しいだけの、シミ一つ無い完璧な婚約者がいた。
それが彼女だ。
僕は兄のことが好きだった、そして同時に、多くの立派な兄を持つ弟達と同じように、彼が嫌いだった。疎ましさだとか、鬱陶しさ、劣等感、羨望、…うまく表現はできないが、それらの言葉とよく似た感情ではあったかもしれない、あるいはそれらの感情をうまい具合に調合して出来上がったのが僕の抱いていた感情だったのかもしれない。しかしそれはもうどうでもいいことだ。僕にはもう、そういった感情を抱いていた、という記憶ぐらいしかないのだ。すべては過去のことでしかない。
義姉の話だ。
彼女のことを義姉と呼ぶことに、未だ僕は抵抗を持っている。実感が無いというべきだろうか。なにせ、彼女が実際に僕の兄の妻として生活していたのは、たったの一週間かそこらなのだ。

結婚して一週間足らずで、兄は交通事故で死んだ。その死には、僕が関わっている。
僕は今でも思っている。あの事故は僕のせいだ。

僕が兄を殺した。

多分、大学のサークルかなにかの飲み会の帰りだったと思う。僕は兄に車で迎えに来てもらったのだ。僕は終電がなくなるとよくこの手を使った。なにせ僕らは仲のいい兄弟だったし、兄は僕を弟としてとても大切にしていた。でもそれもそろそろ終わりにしなくちゃな、と思っていた、なにしろ兄は新婚だし、夜中に弟に呼び出されるなんていろいろと不都合が多いだろう。今回で最後にしよう、と思った。

その帰り道だ。対向車線をはみ出してきたトラックに運転席が押しつぶされて、押しつぶされた運転席に兄が押しつぶされた。あまりにもあっけない死だった。「あまり飲みすぎるなよ。」
助手席でぐったりとしている僕に、ミネラルウォーターを手渡しながら言ったその言葉が、兄の最後の言葉だった。

そのようにして、兄は24で死んだ。24歳で死ぬ。やはり兄は特別な人間だったのだ。
兄の死について、涙を流したことはまだ一度も無い。悲しくはある。けれど泣けない。もしかしたらそれは僕が兄のことを本当は憎んでいたからかもしれない。そんなことも考えたこともある。そしてそれは真実かもしれない。


『ティースプーンの天秤』の最初へ 『ティースプーンの天秤』 2 『ティースプーンの天秤』 4 『ティースプーンの天秤』の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前