初夜の花嫁-1
―― ずっと年上のお兄さんだけど、子どもの頃から大好きな人がいる。
その想いが叶ったのなら……それはきっと、世界で一番の幸せなはずだ。
***
アンジェリーナ・ラインダースが初めて変身したのは、五歳のとある満月夜だった。
いつも通り、子ども部屋の二段ベッドで眠っていたのに、夜中に目が覚めて、やけに身体全体がムズムズした。
窓の外で、誰かが自分を呼んでいるような気がした。
なんと言っているのか聞き取れないし、人間の言葉というより獣の鳴き声のようにも聞える、不思議な声を感じた。
その途端、なぜかいても立ってもいられなくなって、双子の兄ロルフと一緒にベッドから飛び出した。
カーテンを開けると、信じられないほど大きな満月が輝き、薄金色の月光に包まれた。
ロルフが小さく呻いて身体を折り曲げ、みるみるうちに黒い狼へ姿を変えていった。そしてアンの身体も、あっという間に狼になった。
痛みはなく、ムズムズが消えてとてもいい気分だった。
ロルフは慎重に自分の身体をあちこち眺め、尻尾を動かしたり爪を出し入れしたり、肉球をじっくり眺めていたけれど、アンは窓の外に浮かぶ満月が、早くおいでと誘いかけているように感じた。
身体に絡みついたパジャマを振り払い、窓枠に飛び乗って前足で掛け金を外す。
子ども部屋は三階にあったが、はるか下の庭へ飛び降りるのは、とても簡単に思えた。
獣の身体はばねのようにしなやかで、アンは柔らかな草地に怪我一つ負わず着地し、ブルンと身体を一振りする。
満月の光を直接に浴びると、全身の血が沸き立ち、腹の底から歓喜がこみ上げてきた。
夢か現実かもわからないけれど、これこそが本当の姿なのだと、全身で叫びたかった。
喉を逸らし、満月に向って思い切り吠えた瞬間、誰かに首の後ろを噛まれて引き摺られた。
驚いて振り向くと、暗灰色のとても大きな狼がいた。
（パパ？）
初めて見るその狼が、狼になった父親なのも自然と理解した。暗灰色の狼は、傷一つつけずにアンを咥え、素早く家の中に引き戻した。
そして父の正体が人狼で、自分たち双子は、父と人間の母親の間に生まれた人狼の|混血児《ハーフ》だと、初めて知ったのだ。
―― 十一年が経った今でも、あの満月夜の強烈な衝動は、はっきりと心に残っている。
***
（うぅ……緊張する……）
湯浴みをして新品の夜着をつけた身体はガチガチに強張り、子犬のように震えている。
アンは両腕で自分の身体を抱きしめてこらえようとした。
気を落ち着けようと、小さな魔法灯火のランプが照らす幌馬車の中を照らす。
懐かしい馬車の中は、子どもの頃とあまり変わらない。
香木の良い香が立ち込め、様々な生活用品を入れた木箱や、刺繍をした草木染のクッションがあり、天井には乾燥した薬草が吊り下がっている。
昔よりもやや狭く感じるのは、アンが大きくなったからだろう。小柄だった身体は、北国に移住した九歳の頃から急に背が伸びて、今では女性にしては長身の部類だ。
人狼ハーフということを隠して生活していたが、飛びぬけた身体能力を持つアンは、先週まで士官学校の数少ない女生徒だった。
王宮の姫付き護衛にもなれただろうにと、教官たちには中退を惜しまれたが、あそこで学んだ武術は、これから隊商で暮らす上でも大いに役立つはずだ。
今日からはこの幌馬車がアンの住居で、バーグレイ商会の首領・チェスターの妻として暮らすことになるのだから。
昼間のうちに錬金術ギルドで結婚式を済ませ、婚姻書類にサインをし、親戚知人の前で夫婦としての誓いを交換した。
そしてこれから、初夜、である。
……反すうした途端、いっそう不安と緊張が押し寄せてきた。