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瑠璃色の蝶
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瑠璃色の蝶-5

 相変わらず頭の奥に、ミルクの温かさや甘さが触れている。
 その味が、更に私を段々と困らせていくのだ。
「ねえ先生、」
 闇の中に消え入りそうな調子で、私が声を発す。喉を震わす。身体を震わす。世界が、震えている。
「抱いて」
 私の口は、そう言っていた。
 ポツっと、テレビが消える。多分、先生がリモコンのスイッチを押したのだ。
 残像は、死んだ蝶の瑠璃色に飲まれ、容易く消え去ってしまう。まるで今しがたここに現れたばかりかのように、蝶は本当に突然、私の意識に舞い降りてきた。
 誰かが前に、「死は永遠だ」と言っていた。まさしく、その通りなのかもしれない。あれが生きていたら、こんなにも鮮明に、私の中であの蝶は舞っていないだろう。
 間も無く、私の身体は強く包み込まれる。先生によって。それでもずっと、蝶から目が放せない。どうしてだろう。まるで取り疲れたかのよう。先生の温もりに、意識を集中す
ることが出来ない。ずっと望んでいたことが今ようやく叶うかもしれないというのに。
 目が、放せない。
 見ていると、瑠璃色の光が何時しか増殖しはじめた。1匹、また1匹と、増えていく。
 彼らは美しく部屋を舞った。夜にだけ咲く花のように、短い命を惜しむ様子もなく。自分に残された時間の僅かなことなど知らずに、ただひたすら私に見せつける。深い美しさを生まれ持ったものたち。
 蝶に意識を奪われて居た私は、先生が私を抱き占めたまま身動きしないことに漸く気付く。蝶の残像を目の奥に、じれったく思った私は、先生の顎に手をかけ、ゆっくり顔を近づける。だが、互いの唇が合わさらない内に、先生はあっさり私の肩を付き放してしまったのだった。
「……抱きしめることは出来ても、やっぱり、交わることは出来ない。ごめん、」
 先生は俯いてそう言った。何時の間にか、蝶が元通りに壁で死んでいた。
 以前、誰かが「死は永遠だ」と言ったらしい。
 私は黙ってソファから立ち上がる。はらはらと、何かが落ちた気がして顔を伏せる。しかし、そこは闇だから何が落ちたのかなんて判らない。もしかしたら落ちていないのかもしれない。否、確かに落ちたものはあった。私の中で凍えていた樹木に一枚だけあった黒い枯葉が、とうとう虚しく落ちていった。
顔を伏せたまま、先生の断りも無しに、奥の部屋へと歩いていく。
 金箔が散る、横開きの上品なドアを開く。6畳間、和室。そこに、白い布を被せた棺が置かれていた。その横、仏壇の写真の中で綺麗な女の人がかわいく微笑んでいる。膝を折って、仏前の座布団の上に正座した私は、その笑顔を横目に深呼吸する。
 短い線香と長い線香が1本ずつ供えられている所為で、古く清らかな香りが、部屋中に充満している。線香は、人の心を清めると言うのだが、今この香りが私の何かしらの悪を浄化してくれる、とは思えなかった。私はかわいくない子だから。ひん曲がった性格だから。どうしても、そういう「言い伝え」みたいなことは、信じられない。信じようとしない。信じることは騙されること、非常に惨めなことだと、そう考えてしまう。
 背後にけはいを感じて、振り返る。そこに、空ろな眼差しの先生が立っていた。力なく壁に寄りかかり、写真を、女の人の笑顔を見つめている。
 死は永遠だ。先生にとって、この人の死は永遠なのだ。
 私の死は? 私が死んだら、先生は一生引き摺ってくれるのだろうか。一生、先生の中に生き続ける事ができるのだろうか。たぶん、無理だ。だって先生は私と交わってくれない。私に心を開いてくれない。
 思えば、私は先生について何も知らない。だって私たちは、会話というものをあまりしないから。
 この人には話したのだろうか。私には話さないことを、先生はこの人に話したのだろうか。
 無口な先生が好きな筈だったのに。喋らない先生が好きなはずだったのに。
 何故か心を開いてくれないことに、今は寂しさを覚える。
 矛盾、利己的なトラップ。甘えているのか、浅はかなのか。果たして私は、先生の目にちゃんと映っているのだろうか。
「私、やっぱり帰る」


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