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瑠璃色の蝶
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瑠璃色の蝶-4

 気が付くと、頭の上にある私の手首を先生の手が握っていた。確認すれば、血の痕跡はどこにも見当たらない。カップを持った手を上に掲げた状態で、私はただ固く目を閉じていた。瞼を開くと、蝶も元の場所にしっかりと張り付いていた。短く、儚い夢のように。

「まだ中味、残っているから。零したら、カーペット染みになっちゃうから。それからほら、毛布持ってきたよ。」

 先生はいつもと変わらない調子で、私に毛布を差し出してきた。

 冷静な先生は何も言わない。いつも通り、大人の顔で私に微笑みかける。

 先生はいつもと変わらない調子で、私に毛布を差し出してきた。
 冷静な先生は何も言わない。いつも通り、大人の顔で私に微笑みかける。
素直に差し出された毛布を受取った。
「ごめんなさい」私が言うと、
「ありがとう、だろう」と、先生は苦笑した。
 再びごめんなさいと言いそうになったが、辛うじて口を紡ぐ。
 折角先生が持って来てくれたので、私はソファの上に横たわり毛布に包まって目を閉じてみた。別にそういうけはいを感じていたわけではないけれど、先生がそわそわしているような気がして、寝息を立ててみたりした。全身の力を抜いて、寝た振りをした。しかし、変に身体が震えて、やっぱり眠れない。
 私が寝息を立て始めてから数分後、先生は映画を見はじめる。聞こえてくる言葉は、英語だった。
『もっと、もっと遠くに行きましょう。誰も知らない場所まで。』
 映画の中の、女の声は、微かに震えていた。
 約2時間で終わったその映画を観ている最中、先生は、何度か私の頭を優しく撫でてくれた。
 そのたびに、涙が出そうになった。

 それから数日間。私は何度も先生の家を訪れた。毎晩、夜遅くまで遅くまで男と喘いでいる母は、私のことなど少しも心配していないらしい。一週間も顔をあわせてないのに、私の携帯電話の着信欄に相変わらず母の名前が記されることはない。
 そう、もう一週間にもなるのだ。
 まるでトイレットペーパーのように流れる時間。私の醜い気持ち、汚泥を、先生という水に溶かし、流してその場凌ぎ、ごまかす。使いきったと思った時に、ようやく芯が露わになる。そう、結局、それでもどうせ世界は不健康になってしまうのに。こりない私。
「今、何を考えている?」
 闇の中、真っ黒のソファの上に横たわる私に、キッチンからやってきた先生が言った。
テレビの冷たい光が、その姿をぼんやり映し出す。いつもと同じ景色。先生は、両の手を、カップで塞いでいた。
 先生は中味が白い方のカップをテーブルの上、私の前に置き、黒い方を自身の掌で包んだ。私はその掌を凝視する。
 カップが酷く柔らかく見える。
 果たして、私とどちらのほうが脆いだろう。
 どちらの方が、先生の掌にぴったり嵌るだろう。
 形の定まらない私と、いっさい動くことの出来ない彼と。でも、動けるからって特別嬉しいことなんてない。風に晒されて独り歩くより、動けないからと包まれる彼の方が、確実に存在できるのではないかと、そう思う。
「ううん。別に、ただぼんやりしていた。」
 私は半身起き上がり、先生が置いてくれたカップに口つける。そっと舌の上に滑らせると、滑らかで溶けていく絹のような触感が、頭の奥底にまで広がっていった。ミルクだ。
 とても甘い。
 そして、温かい。
 私は極力先生と同じような指の形をつくって、カップを掌に包みこむ。
 その手を操ってもう一口ミルクを身体に流し込むと、降下していったミルクになぞられた身体の、内部器官や臓器の表面が、収縮していくような心地に捕らわれた。
 泣きたい。肺や心臓がまるで締め付けられているように軋むほどに、強く思った。


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