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山だし
【その他 官能小説】

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山だし-13

 それから十数年が過ぎた先日、仕事で神田に出た私は、ふと『L』を思い出し、神保町まで足を延ばしてみることにした。
 地下鉄に乗らず、靖国通りをゆっくり歩いた。
 小川町を過ぎ、見覚えのある建物が次々と脳裏の思い出と重なってくる。懐かしい。
(この辺もよく歩いたな……)
 昼時とあって人通りは多い。どこからか香ばしいにおいやスパイシーな香りが流れてくる。
 やがて三省堂が見えてきて、書泉、古本屋街へと続いていく。……この裏がすずらん通り……。
(『L』は何という通りにあったのか……)
思い出せない。
 そもそも今でもあるのだろうか。流行った店でもなかったし、マスターはあの頃いくつだったのだろう。学生の私から見ればすでに老境にあった記憶がある。

 歩くうち、偶然記憶にある煙草屋を見つけた。
(この通りだ)
懐かしさがこみ上げ、同時に怖いような奇妙なときめきが起こってきた。
(!……)
『L』の看板が目に入った。私は立ち止まり、思わず(ありがとう……)と心で呟いていた。
 黄色地に黒字の電飾看板。
(同じだ……)
変わらずにあったことで、まるで自分の青春時代が証明されたような、何ともいえない感慨が沸き起こった。

 扉を開けるとかなり込み合っていた。内装は以前と違うように思うが、全体の造作は当時の雰囲気がある。心なしか店内のにおいも懐かしさを感じる。
 出入り口近くに二人掛けの席が空いていた。座りかけて、私はとっさに顔を伏せた。
(サトエがいる!)
たしかにサトエである。
 何をしているんだ?
 カウンターを見ると痩せた老人が立ち働いている。面影を模索する。様子は変わっているがあのマスターであった。
 若いウエイトレスが注文を取りにきて、コーヒーを頼んだ。

(サトエ……)
 ずいぶん太って、体形には昔の面影の片鱗すらみられない。頬がたるんだ顔はまさに『鬼瓦』であった。

 私は彼女の動きを目で追った。当時と比べると動作は緩慢になった気がする。そしてその表情は無愛想を通り越して不機嫌そのものに見える。
 近くに陣取った四人組の若者の一人が手をあげてサトエに呼びかけた。
「サンドイッチ、まだ?」
サトエは慌てて伝票を繰った。
「あ、ごめん、すぐやります」
若者は呆れたように仲間に笑いかけた。
「やっぱり忘れるよ、あのババア」
「まったく、とろいよな」
「よく雇ってるよな」

 あの頃のサトエの姿が甦ってきた。引き締まったウエスト。突き出た胸。……私はこの若者たちと同じ年頃であった。
(サトエ……)
目頭が熱くなって、私はハンカチで目を押さえた。そして哀惜の想いを抱きしめながら呟いたのだった。
「山だし……」


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