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カレーの歌
【二次創作 その他小説】

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カレーの歌-1

「ありがとうございましたぁ」
「ういっす」
灰色のアスファルトが剥き出しになったスタジオの仕切り戸を、くぐるように通り抜ける。
渋谷の裏路地を通った奥まった場所にあるそこは、華やかな音楽業界のおこぼれの光さえ射し込んできそうに無いように思えた。継目の合っていないアスファルトの壁はひどく歪んで、通ってくる僕等のような人間を不安にさせて止まない。
小汚い休憩室には「Fuck off!!」だの「メガヒット至上主義」だの「愛してるよ、美香」だの―――どうして落書きと恋愛は切り離せないのだろう。公園や街中ならともかく、ここは単なるスタジオなのに―――が、やっぱり歪んだ字でこびりついている。ガチャリと重い防音性に優れたドアのノブを回し、タイミング良く体重を乗せて押し出す。ここの扉は建てつけが悪く、扉の右下に重心を掛けて上手く勢いをつけないとなかなか開かない。そんな事を体で覚えてしまう程度には、僕はこの東京の街に居る。
「・・・寒いな」
ドアの隙間から溢れんばかりの冷気の洪水が襲う。びゅうう、という鈍い音に顔をしかめ、僕はそそくさと外へ出て行く。凍てついた昼空は高く高く、哀しいくらいに遠すぎて思わず手を伸ばしてみたくなる。しかしそれをする代わりに、僕の右手の5本の指は赤色のマフラーを顎の辺りまで引き上げた。
『こうやって捲くとあったかいんだよ』
格好悪いからやめろと言っても聞かずに、“君”は長くて網目の粗い真っ白なマフラーを首にぐるりと2重にまきつけたのだった。
「・・・2年か」
“君”とあの日、駅のホームで別れてから、もうそんなに月日が経っていたのだ。
「寒いね」
「・・・ああ」
ただでさえ田舎にある僕の家から最寄の駅までは、徒歩30以上かかる。タクシーを呼ぶよ、と言う僕を押し切って、君は早朝5時に僕の家にやって来た。歩いていこう、と。
「少しでも長く一緒に居たいから」
「ああ」
「多分、最後だし」
「・・・ああ」

冬の空は冷たく暗い。けれど僕らは凍りつきそうな遅さで、ゆっくり、ゆっくり歩いた。さっきまでヴィヴィアン・ウエストウッドの手袋をしていた君の右手は、そして、無防備な素肌のまま、僕の左手の中で小さくなっている。


街の灯りがぽつぽつと光り、一足ごとに昇り来る太陽の光に呑み込まれまいとうず巻く。ひときわ大きく輝く、あのてらてら駅の光の方が、しかし、僕等には陽の光よりも脅威だった。
「もうすぐだね」
「・・・うん」
「まだ早いよね?」
「うん」
“うん”ばっかりじゃない、なんて君は笑った。僕もそうだねと言って薄く笑った。お互いに、ほんの少しずつ目線をそらせたまま、僕等は凍えた笑顔のまま笑い続けていた。
「あ、カレーの匂い」
「え」
駅の構内に入ると、暖房の生暖かい空気のなかを、ほんのりとカレーのスパイス臭が漂っていた。朝の5時45分。なんでこんなにも早い時間にカレー屋が営業しているのだろう。
「まだ早いけど、朝ごはんまだでしょう?食べていかない?」
凍えた声を励まして、君は努めて明るく僕を誘った。
「そうだね」
―――小柄な“君”の小さな手を握った感触を、僕の左手はもう殆ど覚えていない。


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