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白いキャンバス
【悲恋 恋愛小説】

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白いキャンバス-3

 カウンターに並んで座った二人は、肩同士が触れ合いそうな程、身体を寄せ合っていた。
 「僕はね、圭子さん。」
 「はい。」
 「たぶん、生まれて初めて本気で女性を好きになったのが貴女だった。」
 「私、知ってるよ。狩野くん、実は小学校の五年生ぐらいから、私のこと気にしてたでしょ。」
 「ばれてた?」
 「狩野くんって、不器用だったからね。言葉や態度ですぐにわかってた。」
 「背も低くて、運動も苦手で、丸坊主で冴えない自分のことなんか棚に上げちゃってさ、本当に厚かましいよね。」
 「なんで?人を好きになるのに、自分の容貌なんか気にしちゃだめでしょ。」
 「それに、好きな人に告白する勇気も持てないまま中学校に上がって、そのまま二年生まで悶々としてたからね。」
 「私、ヒドイことしちゃったね。今になって思えば、狩野くんの気持ちをずいぶん弄んでたような気がする。」
 「そんなことないよ。僕が勝手に悶々としてただけだから。貴女が気にすることじゃない。」
 「三年も、だよ?私を三年も想い続けてくれてたんだよ?狩野くんって、すごいよ。なのに、私、あっさりごめんなさい、って言っちゃったんだもの・・・。」
 翔弥は目の前にグラスに目をやった。「しかたないよ・・・。」
 「私、正直言ってあの時は、狩野くんとつき合う気はなかったのかも知れない。でも、少なくとも貴男のことを嫌ってはいなかった。」
 「え?本当に?だって、千恵のやつ、僕に『圭子は狩野くんのことが、嫌いなんだよ。』って言ってきたんだよ。」
 「そうなの?千恵、そんなこと言ったの?」
 「そうさ。だから僕はその日から約一週間、ほぼ腑抜け状態だったね。あまりのショックに。」翔弥は水割りのグラスを手に取って、中の氷をカラカラと鳴らした。
 「誤解が解けて良かった。私、あの時も、その後もずっと、貴男を嫌いだって思ったことなんかないよ。逆に尊敬してた。」
 「え?尊敬?」
 「貴男の絵、たしか読書感想画だったかな、あの廊下に貼り出されてた貴男の絵を見たとたん、私やられた、って思ったもん。」
 「読書感想画、って言ったら・・・、ああ、『星の王子様』の絵だね。覚えてる覚えてる。」
 「そう、あの絵。砂漠にたたずんで夜空を見上げてる少年の絵。画面の片隅に立っているその王子様は、こっちに背中を向けてて、表情が見えない。それが見る者の想像力を掻き立てる。そうか、絵って、思いを全部描いちゃだめなんだ、ってその時強烈に思ったんだよ。」
 「そうなの?僕は全然意識してなかったよ。そんな深いところまでさ。」
 「意識してなければ無意識に、ってことだよね。その後も、貴男が描く絵は、シンプルで、主張とか思いとかがあまり表現されていなくて、とってももどかしい感じがしてたけど、ずっと見てると、その背中や、壁や、暗闇で見えない、向こうにあるものが見えてくる。その思いが少しずつ心に染みこんでいく、そんな絵だったもの。」
 「僕は、」翔弥は静かにグラスをコースターに戻して言った。「今でも自分の想いを、相手に伝えるのがうまくない。自分でももどかしいと思う。」
 「でも、伝えたい人には、ちゃんと伝わってるよ。」
 「そう上手くはいかないよ。」翔弥はうつむいた。

 「少なくとも、私には伝わってた。」圭子がしばらくしてぽつりと言った。「でも、応えられなかった、あの時の私。」
 「圭子さん・・・・。」
 「私ね、まだ結婚してないんだ。」圭子は両手を広げて見せた。指には何もついていなかった。控えめな薄いピンク色のマニキュアが施された爪は異様に細く、透き通るように白い指は、まっすぐに伸びていた。翔弥は思わず彼女の右手を両手で包みこんだ。その手は氷のように冷たかった。
 「大丈夫。」圭子は笑った。「私、貴男の家庭を崩壊させるつもりはないから。」
 「僕も、そんな勇気はない。今でもね。」
 「私、もちろん、貴男にとっても会いたくて、電話した。でも、貴男が私に夢中になることもないってことはわかってる。」
 「この歳になると、ますます臆病になっちゃって。おまけにずるがしこくなっちゃって、こうして素敵な女性といっしょにいられたら、いろんなことを想像するんだ。」
 「いろんなことって?」
 「僕はもう長いこと妻とは寝ていない。」
 「それって、セックスレスってこと?」
 「そ、そうだね。僕は時々そんな気になるけど、彼女はもう僕を受け入れるつもりはないらしい。」
 「つまり、女性を抱きたくなっても、奥さんが応えてくれない。だから、他にチャンスがあったら走っちゃうかも、ってこと?」
 「そのくせ風俗に行く勇気もお金もない。まったく臆病者だよ。僕って。」
 「今、この時はチャンス。そう思ってるってこと?狩野くん。」
 「・・・・・・。」
 「黙っちゃうんだ・・・。」圭子は少し寂しそうに言った。
 「圭子さんが、」翔弥はゆっくりと口を開いた。「僕と今夜寝てくれる、ってことになればいいな、って思う。でも、それは不倫だし、圭子さんに対しても申し訳ないし。」
 「ということは、ここで、」圭子が翔弥の手を取って優しく言った。「私が、抱いて、って言わなきゃそうならないよね、きっと。」
 圭子は右手で翔弥の手を握ったまま、左手でグラスを持ち上げて一口水割りを口に入れた。
 「変わってない。狩野くん。臆病で、言うこともたどたどしくて、もどかしいしいらいらする。でも、何を考えてるのか、手に取るようにわかる。」圭子は、いきなり翔弥の手首を掴み、左手の薬指にはめられていた銀色の指輪を抜き取った。
 「あ!」翔弥は慌てた。
 圭子はその指輪を上下逆さにして、再び翔弥の指にはめ直した。「大丈夫。狩野くん。不倫じゃないから。」
 「圭子さん・・・・。」
 「今夜だけ。一晩だけ。お酒の力を借りて・・・・。大人になった今なら、その手が使えるでしょ?」


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