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【ミステリー その他小説】

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道連れ-1

 男は自分がなぜこの女を連れて旅をする気になったのか思い出せないでいた。

 あの夜、男は駅前の古着屋でこの寒さをしのげるだけの女の服を買い込み、近くのラブホテルに転がり込んでいた。この女を抱きたいなどという気はさらさら無く、この女と入れるところはラブホテルしか無かっただけの話である、この女から漂う耐え難い臭いを洗い流してやりたかったのだ。

 ぼろ切れの下から鶏ガラのような骨の浮き出た体が現れた。

 女はただの一言も発することなく、頭の上から降り注ぐ暖かい湯の雨の中で我が身のどこひとつ隠すことなく、まるで惚けたように立ちすくんでいた。洗い場の白いタイルがたちまち泥色に染まった

頭を洗い、体を流し、指のひとつひとつをきれいにしてやることが、男にはなぜか無性に嬉しかった。女がタイルの床に倒れ込むまで、随分と長い間、妙になまめかしい造りのこの浴室の中にいた。

 ベッドに横たわる女の顔には何一つ余分な肉が無かった。男は骨の上にしわくちゃになった皮膚がついているだけの人間の顔を初めてみた様な気がした。汚れを落とした髪の下からは黒い髪と同じくらいの量の白い髪がのぞいている。この白い髪の数だけ苦労したとでもいうように半乾きの髪がベッドの上に広がっていた。
 
 女の体に布団をかけ男は隣のソファーに自分の体を横たえた。そばに誰かがいるだけでなぜか落ち着き、すぐに深い眠りに落ちた。きのうまでは熟睡すら出来ずに苦しんでいた男がその日は朝まで一度も目覚めることがなかった。

 女が目覚めたのは次の日の昼過ぎだった。もう一泊の追加金をフロントで払い、近くのコンビニで買い込んだ食料を手に部屋に戻った時、女はベッドの上に座り込み、身を固くして男を待っていた。まるで追いかけてくる何者かから身を守るようにぶるぶると震えるその目には負の光が宿っていた。



 誰かと食事を共にするなんていつ以来のことだろう。たとえ相手がホームレスの女だろうと一人で食べるよりずっとましだという思いが男の身にしみわたる。コンビニの粗末な弁当がやけに旨く、残らず平らげてしまっていた。女は恐ろしく時間をかけながら渡された袋の中身を全て自分の胃袋の中に放り込んでいった。

 きっと何日も食べていなかったのだろう。ただ黙々と食べ続けた。食べ物が、そして飲み物がすべて女の腹の中に姿を消した時、男は夕べからこの女が一言の言葉も発していないことに気がついた。

 「あんた、名前は?」

 「・・・・・・」

 女は口の前で手のひらを立て、その手を左右にせわしなく振った。

 「あんたしゃべれないのか?」

 男の言葉に女はその顔を上下に振った。そして昨日からずっと離さずにいた薄汚れた巾着袋の中からすり切れてしまった一枚の紙を取り出し、そして男に差し出した。

 男が広げてみるとそれはずいぶんと前に申請したと思われる、折り目がすり切れて色の変わってしまった戸籍謄本だった。

 「これはあんたのか?」

 女はハイとでも言うように頭を上下に振る。

 戸籍謄本によると女の名前は「山崎 幸」、昭和二十八年生まれと記されているが両親の欄は空白、福島県田村郡の生まれとなっていた。男とは三つ違いの四十九才、この口の利けない女の過酷な人生がその戸籍謄本のなかに見て取れた。



 「もっと若いかと思ったけどもう五十前になるのだね」

  女は私からその紙切れをひったくるように取り戻すと、又それを巾着袋の中にしまい込み、頭を上下に振る。

 前歯が何本も欠け、骨が浮き出た顔の上のぼさぼさの白髪混じりのその髪を、たとえいくらいじり回したところで、さほど見栄え良くはなりはしないが、それでも男は女の髪を整え、昨日買った古着を着せ、次の日の朝早くこの町を出た。




 少しでも暖かい場所を求めて瀬戸内の町にたどり着いたとき、男の乏しい手持ちの金はすっかり底をついていた。

 二人が何とも大仰な橋を三つ歩いて渡った時、日はとっくに暮れていた、二人はいつしかヘッドライトを点しながら通り過ぎていく車にあふれた幹線道路から離れ、更に島の奥へと分け入った山の中の荒れ寺の御堂に、その身を潜りこませていた。

 暖かな瀬戸内とはいえ、真冬の夜はどんな荒れた御堂でもありがたい。男と幸は互いの体温を奪い合うかのように抱き合い、寒さをしのぎながら朝を待っていた。

 何とも旨そうなみそ汁の臭いが御堂の外から流れ込んでくる。その匂いをたどり、御堂をぐるりと廻ると、御堂の真裏にはこの寺の庫裏(くり)とおぼしき粗末な建物が在った。

 夕べは廃寺と思われたここにもどうやら人が住んでいる気配を、なんとも美味そうなみそ汁の匂いが教えてくれる。男が壊れかけた引き戸を引くとそこにはもう八十はとうに越えたとおぼしきこの寺の住職が朝餉(あさげ)の支度をしていた。

 男が無断で一夜の宿を借り受けたことの詫びと礼を述べ、その場を辞そうとした時、その住職はこの突然の闖入者にさして驚く様子も無く、穏やかな微笑とその声で、

 「この年寄りと朝飯を一緒に食べてくださらんか。一人で食べる朝飯はまずくてな」


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