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夕焼けの窓辺
【その他 官能小説】

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第6話-14

彼女の住んでいる部屋は、25階建ての高層マンションの最上階。
暗い気持ちで、エレベーターに乗り込んだ。あっという間のようで長い、狭い孤独な時間。
部屋の前に着くと、鍵穴に、ゆっくりと鍵を差し込む。かちゃん、と正常に鍵が外れる音。
やはり両親共仕事なのだろう、誰一人としている気配はない。
その事を知ると、彼女は安心して部屋に入る。
これが彼女にとっての当たり前。
―――しかし先週、突然両親の離婚話を切り出されたのだ。
父は百貨店のバイヤーで、元々海外出張が多いため不在にする事が多く、母も大手出版社で雑誌の編集の仕事をしており、いつも多忙を極めていた。
昔からお互い仕事優先で決して仲が良いとは言えない夫婦、今までその話が出なかったのが不思議な位だったと思うが、いざ切り出されると、少なからずショックを受けている自分に驚いた。
当たり前の日常が、あっさりと、呆気なく壊れてゆく。
それから、この家には両親共今まで以上に帰って来なくなった。
そんな素振りは見せていないが、もしかすると互いに別の相手がいるのではないだろうか。
たとえそうだとしても、自分には関係ない。
(私の顔を見にも帰ってきてくれないんだな…)
黒い革張りのソファに腰掛けて、不意にそんな子どもじみた事を考えてしまう。
ここに帰ってくると、嫌でも感傷に浸ってしまう。それが憂鬱だった。
(両親にとって、私は一体何なのだろう…どうして、私を産んだのか)
常に、頭の片隅にあるそんな鬱屈した思考。
物心ついた時から、彼女を育ててくれたのは、金で雇われた家政婦だった。
両親に心配を掛けないように口外しなかったが、たまに手をあげられた事もある。そして、小学生の時の担任から受けた性的嫌がらせ。幼い頃から、他人に裏切られる事に慣れてしまった彼女は、徐々に心を閉ざし始めた。
それでも、模範的な優等生でいようと思ったのは、そうすれば少しでも両親は褒めてくれる、自分に興味を持ってくれるかもしれないという淡い期待。
それは、成人を過ぎた今となっても抱き続けている。だから、必要以上に両親を心配させない、良い子を未だに演じ続けている。
いつまで、こんな事を続けるのだろう。両親の自分の接し方は、ずっと変わらないままなのに。
いじらしすぎる自分をどこかで嘲笑いながらも、身に付いてしまった習慣は、なかなか止める事ができなかった。
その最後の希望も潰えた時、自分の無価値さを思い知らされるのだろう。
両親にとって、自分はどこまでもどうでもいい存在なのだという事を。
思春期の頃、手首を切ってみようかなどと、馬鹿げた考えが稀に頭を過る事があった。
こんな自分でも、もし生死の淵を彷徨うような状態に陥ったとしたら、両親は仕事よりも自分を優先してくれるかもしれない。心配して、泣いてくれるかもしれない。
それを試したかったが、硬質な刃の冷たい感触を青い脈に押し付けるだけで指先が震え、動悸が早くなる。結局、怖気づいてしまってできなかった。
生みの親からですら必要とされていない人間、自分自身すらも全く信用していないこんな人間を、他人の誰が必要としてくれる?
自分は、きっと心から人を愛する事などできない。だから、その分他人の愛情なんて求めない、求める資格などないし、自分からも与えない。それを信条として、これまで生きてきた。
…英里は静かに瞳を閉じると、目蓋の裏におぼろげに映る、ある人物の姿。
突然現れた自分にとって一番居心地の良い場所。
自分が今まで知らなかった、温かい感情を教えてくれたあの人。
冷めたふりをしながら、彼にだけは嫌われたくないなどと、甘っちょろい考えを抱いている自分がいる。
こんなにどろどろとした感情を常に抱いているような暗い人間を、受け入れてくれるだろうか?そんなはずがあるわけない。
世の中には、こんな屈折した考えなど抱いた事もないような、真っ直ぐ素直に育った人間がいる。きっと、彼もそちら側の人間だろう。自分とは根本的なところが違うのだ。彼との間にある超えられない壁。
まだ、彼に見せているのは虚構の自分のままだ。
もし、本当の自分を知られたならば、もう彼とは離れるべき時なのかもしれない。
そう思っているのに。
実は、彼には秘密にしていたが、今日お守りを買った神社は、縁結びのご利益があると有名なところだ。
そんな目に見えないものに縋ってしまうなんて、心のどこかで、何かを期待している。
永久に続くような不変の愛情なんて、あるはずがないのに…。
一番身近な愛情を感じずに育ってきた彼女の心の奥底は、溶けない氷のように閉ざされているのだった。


―――あれから、何時間経っただろうか。
旅行の疲れが出て、座ったまま少し眠っていたらしい。
夢の中ですら、両親と過ごした楽しい記憶も見られなかった事に、彼女は皮肉な笑みを漏らした。
ふと、誰か人のいる気配を感じ、顔を上げると、
「…目が覚めたの?」
「あ、お母さん、帰ってたんだ。お帰りなさい」
英里は動揺しながらも、作り慣れた笑顔で母親の顔を見つめる。
母親も彼女に似て、きりっとした顔立ちが凛々しい聡明な美人で、見るからに仕事をこなすキャリアウーマンといった外見だ。もう40代の後半だが、くたびれたような印象は一切ない。
母が編集を担当している雑誌は、働く女性を購買層としてターゲットにしているらしく、まさにそれを体現しているかのような働きぶりだった。
少しつり目がちの流れるような目元は涼やかで、一重の目蓋は硬質で冷たい印象を与える。
「ええ、ちょっと必要な資料を取りに帰ってきたの」
そう言いながら、母は書棚から何冊かファイルを取り出した。きびきびとした身のこなしは、まるで自分自身に対する自信の表れのようだ。
「そう」


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