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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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10-1

 日が経つに連れて、あの日々は幻だったのではないかとさえ思えてきた。俺の家にキリが来た事は幻で、一緒に暮らしていたなんて大嘘を今関さんのお母さんに言ってしまったのではないか。キリのナイロンバッグを目の前にしてさえ、そんな事を考える。
 そうでも思わないと、やってられない。あんなに満ち満ちた日々が突然途絶えるなんて、想像していなかった。彼女が望んで俺が望んだあの日々は、きっと幻だったのだ。
「きり」
 彼女が使っていた枕を抱きしめると、ふんわり、彼女の香りがした。鼻の奥がつんとして、俺は顔を横断する水の雫が自分の枕に吸収されていくのを感じた。

 何度かライブをやった事がある。ビルの十階に入っているそのライブハウスは「ビーチサンダー」という名前で、俺達は略して「びーさん」と呼んでいた。
「お願いしまーす」
 入り口を入ると声を掛け、すると中にいた人が一斉にこちらを向き、口々に「お願いします」と言う。
「桜井さんのリハは一番始めなんで、すぐ支度してくださいよー」
 下島君はバインダーに挟んだ紙を持って俺の肩を叩いた。
「うい」
 返事をしながらギターを取り出し、手元のチューナーでチューニングを始める。そこここで今関さんの曲を口ずさむ声が聞こえてくる。俺も「濃霧の向こう」以外の曲で、思い浮かんだ曲を歌いながらコードをつま弾いた。
 今日の出演者の中で最古参は俺らしく、しんがりを任された。しんがりならそれらしいポップチューンで終わらせればいいのに、と思わなくもなかったが、下島君の仕切りだから彼には文句を言わなかった。
「じゃ、桜井さん、お願いしまーす」
 下島君の声がステージの辺りから上がって、俺は「はいよ」と立ち上がり、楽屋と呼ぶには小さ過ぎる、ギターやベースで埋め尽くされた控え室を通ってステージに上った。まだあちこちにシールド類が散らかっていて、それでも俺はギター一本で歌うから、不便は無かった。今日はアンプを経由せず、生音でお願いした。
 歌はうやむやなままで、ギター中心に音を調節してもらう。何度もライブをやっているから、ここのPAさんとは顔見知りだ。大体の事は適当にやってくれると分かっている。
「ライトはどうします?」
「動かさないでいいよ、適当で。転調するあたりで色変えるぐらいで」
 適当、と言っておきながら注文をつけている事に気付き「あ、やっぱ全部お任せします」とマイクを通して言うと、どっと笑いが起こる。
「次はー、マクロハウスさんお願いしまーす」
 下島君は仕切り役で忙しそうだ。俺は「濃霧の向こう」の歌詞を眺めながら、なぜかキリの事を思った。
 深い霧につつまれた樹海の中で、彼女は裸足のまま、か細い脚で霧の奥へと走り去ってしまうイメージが頭から離れなかった。実際、「濃霧の向こう」という曲は、ハッピーチューンではなかった。
 今関さんが弾き語り時代に作った曲で、ソニックスではアルバムに収録されているが、シングルカットにはならなかった。歌詞が少し陰鬱だからだろう。弾き語りでなんて歌ったら、更に暗さが増しそうだが、今関さんはいつもさわやかに歌い上げていた。少し離れた所からこの曲が聞こえてくると、俺は次の曲に移るのをやめ、耳を傾けていたものだ。梅雨の雨のように、憂鬱でいて、しかし向こうに見えている夏を透かして見ているような、今関さんの不思議な声。あれを真似ようと思っても、俺にはできないだろう。だから今日、俺があの曲を歌ったとしても、今日こそは「声が似ている」とは言われないだろう。

 リハーサルが終わった頃、一人目のお客さんが入ってきた。それから続々と人が集まってきて、たちまちライブハウスは熱気に包まれ始める。俺はフロアの片隅、小さく切り取られたみたいなはめ殺しの窓から、十階分下にあるコンビニのあかりを見ていた。人が歩く姿を見ていた。
 ここから飛び降りたら、きっと死ぬのだろう。死ぬという事は、どういう感じなのだろうか。今関さんはなぜ、死を選んだのだろうか。その「死」を発見したのは、もしかするとキリなのかもしれない。何となく、そうだろうと確信できた。濃い霧の向こう側に歩いて行く今関さんを見つけたのは、きっとキリだったんだ、そうに決まっている。
 人が増えるにつれ、はめ殺しの窓がどんどん結露してくる。客が次々に入ってくる。曇ったガラスの向こう側に、コンビニのあかりに反射する自転車が通って行った。それを最後に、コンビニのぼんやりした灯りしか分からなくなった。人なのか車なのか自転車なのか、分からなくなった。
 大きなライブハウスではないから、出演者も客も、同じフロアにいる。先日直接ビラを渡した女性が、俺に気付いて近づいてきた。
「桜井君、今日は何の曲歌うの?」
 俺は「内緒です」と言って笑った。
「カウンター? あ、オーバードライブでしょ?」
「内緒です」今度は少し強めに押すと、女性はカラリと笑って「楽しみにしてるよ、頑張ってね」と俺の肩を叩いた。
 その後も同じような事を訊きにくるファンの方々を、同じように「内緒です」と言ってあしらった。



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