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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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 鼻でも詰まっているのだろう、超音波みたいな音をならしながら、子供は俺のベッドにうつ伏せている。母親の匂いが少しはするだろうか。
 俺は湯を沸かして茶碗に注ぐと、粉末の緑茶を溶かし入れた。
「どうぞ」
 湯気を立てる茶碗を手に持つと彼女は、「ありがとう」と一度俺の顔をじっと見て、それから緑茶に目を落とした。俺は彼女の対面に座り、彼女が何か口を開くのを待った。傍らに転がっているキリのナイロンバッグから、白い紙袋が顔を覗かせている。彼女は今日、眠れるだろうか。俺の隣ではなく、どこで眠るのだろうか。
 女性は静かに話を始めた。
「健司が自殺したのはご存知でしょ」
 俺は静かに頷いた。こういう時は御愁傷様ですとか、気の利いた言葉を吐いた方がいいのかどうか逡巡し、そしてやめた。もう一ヶ月以上も経っているのだ。
「あの頃にはもう、二人とも精神的にどうかしちゃってて、この子は私が面倒を見てたんです。桐子ちゃん、ご両親を亡くしてるから」
 カレーに福神漬けを入れない家だったと語った。霧の向こうから、彼女の少し寂しげな顔が見えるような気がした。
「それで、二人は結婚してなかったっていうのは」
 俺の言葉に彼女は無言で一度頷き、それから緑茶をすすると、口を開く。
「健司が急に忙しくなったっていうのも一因なんだけど、事務所が、結婚はNGだって言ったらしくて」
 よく聞く話だ。特に男性アーティストの場合、結婚を公表すると女性ファンが離れるから、していても隠し通すか、事務所が結婚しないように言うらしい。今関さんとキリは、子供はいても入籍をせずにいて、キリは旧姓である堺桐子のままだったのか。
「一段落したら事務所を説得して結婚するって、健司はずっと言ってたんだけどね。桐子ちゃんともそういう約束をしてて。まぁ、でもあんな感じでずっと忙しくて」
 ふぅっーと長い溜め息を吐いた彼女は、茶碗から顔をあげ、俺をじっと見つめた。
「ほんと、似てる。似てるね、健司に。桐子ちゃんがあなたの所に行ったっていうのは、何か分かる気がする」
「桐子さんは、何で僕の所に来たんですか? ずっと疑問だったんですけど、桐子さんからは話してもらえなくて」
 傍にあるキリの鞄に目をやった彼女は、ふっと頬を緩め、目頭を少し押さえた。
「香山君に聞いたんだけどね。同じ駅で弾き語りをしてた後輩で、健司とそっくりな子がいるんだって。桐子ちゃんも多分、その事を知ってると思うからって。だからこそこうやって桜井さんの所に私が辿り着いた訳なんだけど」
 俺の疑問に対する答えにはなかなか辿り着かず、少し苛立つ。しかしこの女性は息子を亡くしていて、目の前には息子にそっくりの男が一人。いなくなった義理の娘を取り逃がし、頭の中は混沌としているのだろう。じっくり話を聞く事にした。俺は頷いて先を促す。
「推測でしか言えないの。勝手な推測で、本当の事は桐子ちゃんに聞かなきゃ分からない。でも多分、健司を亡くしてぼろぼろになって、健司の影をあなたに求めに行ったんだと思う。外身だけでもいいから、健司を。凄く、なんと言うか、抽象的な表現になっちゃうけど、分かってもらえるかな」
 そう言って自嘲気味に笑う。俺はまだ一度も口をつけていない緑茶に初めて口をつけ「そうですか」と言った。それ以外に言葉が見当たらなかった。本人に聞くしかないのだ。俺を求めてきたのはなぜなのか。今関さんとそっくりな俺と暮らす事で埋まる穴だったのか。
 俺は傍らに置いたギターケースからビラを一枚取り出すと、隅の方に携帯番号を記入した。
「これ、僕の番号です。もし桐子さんが見つかったら連絡ください。僕ももし見つけたら連絡しますんで、連絡先聞いてもいいですか?」
 女性にもう一枚のビラとペンを渡し、連絡先を記入してもらう。今関、と名前が書かれた。
「桐子ちゃんがどこに行ったかとか、心当たりはある?」
 俺は頭を巡らせ「うーん、特には思い当たらないですね」と期待はずれの答えをする。
「でも、お金は沢山持っていたようですから、ホテルに泊まるとか、そういう事は可能かもしれませんね」
 そう言うと、少し安心したような笑みで「お金持ってるなら心配ないかな」と言って立ち上がり、ベッドで寝ていた子供を再び抱えた。何か声を出したようだったが、女性の胸で再び寝息をたて始める。
「あの、駅まで送って行きましょうか?」
「いいの、桐子ちゃんがここに戻ってくるかも知れないから。桜井さんはここにいて、ね」
 どことなく今関さんの面影があるその女性は、どことなくキリの面影がある孫を抱いて、駅に向かって歩いて行った。
 部屋に戻ると、棚に置いた赤と白の紙袋が目に飛び込んできた。中を開くと、チョコが入っているのだろう小さな箱と、小さな二つ折りの手紙が入っていた。
『私だけの武人へ』



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