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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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「菓子パンですけどいいですか、あとインスタントコーヒーいれますから。飲んだらすぐ帰ってくださいね」
 ベッドに向かってそう言う。返事が来ないのは承知の上だった。俺は薬缶で湯を沸かし、コーヒーをいれた。そろそろインスタントコーヒーを買って来なければと頭の中にメモをする。
 俺のカーディガンを羽織った彼女、キリはベッドから這うようにしてちゃぶ台まで来て、それから「いただきます」と言って菓子パンの袋を叩いて破り、食べ始めた。破裂音で俺は危うく声を上げそうになった。
 彼女に渡したのは百八十センチの俺が着れるようなカーディガンだからサイズがぶかぶかなのは当たり前なのだが、巨大なケープでも掛けたようなシルエットになっていて、彼女の華奢な身体が痛々しかった。
「ねぇ、武人君は仕事してるの?」
「してますよ、今日は休みだけど」
 ふーん、と言ってクリームパンを一口かじる。
「キリ、さん、は仕事してないんですか」
「だって私お金あるもん、使い切れないぐらい」
「あっそ」諦めたように俺はそれだけ言い、黙ってパンを食らった。
「ねぇ、同じ歳だから、ため口にしようよ。今日は何が食べたい? とりあえずお昼」
 パンを頬張りながら、首を傾げてみせる。細い首は今にも折れそうに見え、そこが限界のように思えてくる。
「あの、本当にここに居座るつもりなの?」
 俺はさぞ迷惑そうに言ったつもりなのだけれど、彼女はそんな事は勘定に入れず「居座るつもり」とサラリ言う。
 きっと何を言っても、脅しを掛けても、彼女はここに居座るつもりなのだろう。偶然駅の前で歌っていた俺を見て、人畜無害で簡単に部屋にあげてくれそうな顔だとでも思ったのだろうか。もし俺ではなく、もっと乱暴な奴だったら、彼女はレイプでもされていたかも知れないのに。そんな危険性を一切考えていなかったのだろうかと疑問に思う事は次々と湧き出てくる。
 ひょんな切欠でうちに来て、きっとひょんな切欠で出て行くんだろう。「気が変わったから出てくね」とか、平気で言ってのけるタイプなのかもしれない。そうに違いない。
 タイミングよく、半年前に彼女と別れてから新しい彼女はできていないし、友人が頻繁に訊ねてくるような家でもない。金も払うと言っているぐらいだ、しかも受け取った事になってしまっているし、ある程度は信用しても大丈夫だろう。
「キリ、携帯持ってる?」
 キリはクリームパンの最後のひとかけらを口にくわえたまま鞄の中に手を突っ込み、携帯を取り出す。真っ赤な金魚みたいな携帯だった。
「赤、好きなの」
「うん」
 最後の一口をもぐもぐとしながら、今度はマグカップに指を引っかけている。
「一応、何かあったときのために電話番号教えろ」
「何かって、何か私が悪い事すると思ってる?」
「分かねぇだろ、そんなの。俺キリの事なんてなんも知らねぇんだぞ」
 俺は口を尖らせてそう言い、自分の電話番号を表示させたスマートフォンを彼女に向けた。
「ここにかけて」
 彼女は少し伸びた爪が引っかかる音を立てながらキーを操作し、俺のスマートフォンを鳴らした。「きりこ」と入力し、登録する。
「昼は、俺が焼きそばでも作るから。夜はキリが作れ」
 彼女は口元にだけ浮かべていた薄い微笑みを、一気に広げてにっこり笑うと「うん」と大きく頷いた。

「キリは暴力団の女だとか、そういうオチはないよな?」
 彼女が作った筑前煮の里芋を箸で突き刺して口に運びながらそう訊ねると、可笑しそうに彼女はケタケタ笑った。
「ないよ。多分、武人が心配してるような事は一切ないから、大丈夫」
 キリの料理の手際は極めて良かった。まるで今まで誰かのために夕飯を作る事が日課だったかのように、さっさと野菜を切り刻み、冷蔵庫をざっと眺めて必要な物を取り出して味噌汁を作ったり、棚の中を覗き込んで水切りボウルを見つけると、それを取り出してサラダを作った。小さなちゃぶ台の上はおかずでいっぱいになった。
「キリは料理が得意なんだな」
 思ってもないぐらい、感心しきりの声が出る。
「そうでもないよ。食べてくれる人がいなければ絶対作らないし。自分一人のためには絶対に料理なんてしないから」
 目尻を下げて笑う。昨日、俺の傍に寄って来た時に感じた、少し寂しそうな薄い笑顔は消え去って、今は目一杯笑っているような気がする。これが通常のキリなのか、昨日の幸が薄そうな感じの笑顔が通常のキリなのか。今の所、俺には判断ができなかった。
「じゃぁさ、うちにいてもいいから、夕飯は作れよ。それが条件な」
「武人、彼女は?」
 やにわにそんな事を訊かれて、手から箸が転げ落ちた。
「いないよ、そんなもん」
 慌てて箸を拾い、傍にあったティッシュで拭う。「ゴミ」と彼女が手を伸ばして来たので、骨と皮でできたみたいな彼女の手の平にティッシュを乗せると、背後にあるゴミ箱に捨ててくれた。
「私の事、彼女みたいに思えとは言わないけど、家政婦みたいに何でもするから、言ってね」
 俺はケタケタ笑って「家政婦かよ」と言うと、彼女も同じように「ご不満ですか?」と笑う。



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