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時は動き出した
【大人 恋愛小説】

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 暫く無言で、ビールを呑んだり魚をつついたりしていた。痺れを切らしたように口を開いたのは真吾だった。
「お前、今、幸せか?」
 箸が止まる。その先に身体の振動が伝わる。至極シンプルな質問なのに、答えに窮している自分が可笑しかった。きっと真吾には答えが分かっている。それなのにわざわざ訊いている。
「人並みの生活は送れてるかなと......」
「幸せかって聞いたんだ」
 冷たさを感じる程の無表情で話を遮られる。しばし呆然とした。一般的な、幸せだと言い切れる生活を想像する。自分の生活とは天と地ほどの差があるように今は思う。
「幸せとは、言い切れないかな。不妊の事もあるし、夫と生活リズムも合わないし」
 私は結露した生ビールのジョッキを指先で撫でた。指に溜まった水が、コースター目掛けて落下を始める。
「俺と同じようになって欲しくないんだ」
「へ?」
 それまで無表情で私を責め立てるようだった彼が、急に柔らかな声を発した事に驚いた。暖かな声とは対照的に、顔が陰っている。
「俺の嫁、何であんな深夜に電車に乗ってたと思う?」
 暫く思案したが「仕事?」としか言えなかった。彼は俯いて少し笑ったようだった。吐く息の音が小さく耳に届いた。
「喧嘩したんだ。彼女の実家は八王子にある。それで実家に帰るって怒って、あの電車に乗ったんだ」
 私は何も言わず、いや、言えず、喧嘩の原因に触れるか触れまいか、散々迷った。だか意外な事に、その核心に触れたのは彼の方だった。
「彼女が浮気、いや、不倫してたんだ。俺にそれがバレて喧嘩になって。俺は、恵と嫁以外に身体の関係を持ったことはないって言ったらなぜか彼女は逆切れ。俺がしょっちゅう恵の名前出すからさ。あ、別に恵を責めてる訳じゃないからな」
 無意識のうちに瞬きを連発していた。真吾と奥さんの円満な家庭生活を思い浮かべていたのは私の勝手な想像だったのか。このカミングアウトには大なり小なりショックを隠しきれなかった。
「恵、大丈夫か?」
 中空をさまよっていた私の視線を、真吾は現実に引き戻してくれた。
「そ、そうなんだ。タイミングが悪いって、そう言う事を指すのかね」
 私は作り笑いにもならない苦い顔でビールに口をつけた。ビールが苦さを増した様に感じたのは気のせいだろうか。
「何かと恵の事を引き合いに出しちゃってたんだよな。俺達のあの中途半端な別れ方が、良くなかったんだと、俺は思ってるんだ」
 ジョッキをコトっとテーブルに置いた。私がこの数年間、ずっと引きずっていた事だった。あの雪の日。凍える指先。だがそれと、彼女の事と、何の関係があるんだろう。
「あの時真吾は何で、私に謝って、姿を消したの?」
 それまで言えないでいた、数年来の疑問に終止符を打とうと、私は姿勢を正して訊いた。納得のいかない答えだとしても、受け入れて消化する事ができれば、何かが変わるように思えた。
「俺は恵と同じ大学に進学して、恵と付き合いを続けたかったんだ」
 うん、と先を促す。
「ただ、俺は部活バカだったから、とてもじゃないけど横浜の、国立はもちろん私立だって届かない事を模試で知ったんだよ。そればご存知の通り」
 彼は刺身が乗った大葉を箸で畳んだり、巻いたりしていて、真剣な話をしている最中にこうして無意味な行動をするのは彼の癖だった。
「だったら、遠距離恋愛だってできた訳でしょ」
 大葉から目を外した真吾は一度私の顔を双眸で見つめ、また大葉をいじり始めた。
「好きな女には、側にいて欲しいんだ。そんな俺の我が儘の為に、お前の進路を、前途を、邪魔する事は許されないと思った」
 一つ咳払いをし「大将、生二つ追加で」と通る大きな声でオーダーをした。
「幼馴染だってそれぞれの夢や希望は違うんだ。ずっと一緒にいる事なんて到底無理な話でさ」
 酷く真面目な顔で俯く彼に、名前を呼びかけるぐらいしか出来なかった。
「真吾......」
 パッと顔をあげ、さっきまでとは別人の様に明るい顔でジョッキを持った。
「だから嫌いになって別れたとか、そういうんじゃないんだ。それは分って欲しい」
「......うん」
 妙な気分だ。内心ではとても嬉しかった。自分が嫌われる様な事をしたのではないかと、あの雪の降る日からずっとそんな思いを抱えていたから、結婚しても尚、真吾が奥さんに私の話をしていたという事に少なからず嬉しさが浮かぶ。
 まあ、彼女は亡くなってしまったし、死者には永遠に勝つことが出来ないのは解っている。
「今でも勿論、彼女の事は許せない」
 空気を切り裂くように真直ぐに飛んできた彼の言葉に驚愕し「はぁ」と真の抜けた相槌を漏らしたが、次の言葉に体が固まった。
「だけど、恵と別れた日の俺自身も許せない。恵の事、やっぱり諦められないんだ。引きずってるんだよ」
 酷く動揺した。目の前にあるすべての物が左右に揺れ動く。どう返答したら良いか分からなくて、デニムを履いた太腿を無意味に擦ってみる。
 私は残っていたジョッキのビールを一気に飲み干し「ご馳走様」と言って五千円札を一枚、爪楊枝立を重しにして置き、その場を後にした。
 女将さんの「またいらしてくださいね」という言葉が、酷く遠くから聞こえ、そして遠のいて行った。


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