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時は動き出した
【大人 恋愛小説】

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「明後日の、出来れば夜の、そうだなあ、二十時前後がベストかな。性交渉をもってみてくれるかな。翌日にはまた来院してください。あ、予約を忘れずにね」
 まだ二十五歳という若さ故、先生はあまり心配していない様子が見て取れる。
 私は「分かりました」とだけ伝え、診察室を後にした。
 お会計を済ませてから再度待合室の椅子に座り、昭二にメールをした。二十時時ごろがベストだと言われた、と。早めに連絡を入れておけば、仕事の調整をしてくれるかもしれない。
 返信は無かった。帰宅途中、何度か携帯を見たが、着信もメールもなかった。ある程度予期していた事だけに、極々冷静でいられた。

「昨日、メール見てくれた?」
 翌朝また無言で起きてきた昭二に呆れ、私も朝の挨拶は抜きにした。小さな反抗、可愛い物だ。
「二十時なんてまだカップ麺食いながら仕事してるよ。早く帰れても二十三時過ぎだな」
 その態度には申し訳なさの片鱗もなく、新聞を広げながら湯気の立つホットミルクを啜る。
 悪気はないのだろう。そういう性格だ、と容認して付き合っていかなければならない。これから先、子供ができてもできなくても、彼の、私に意見を押し付けるような性格に合わせて、過ごしていかなければならない。
 それが我慢ならないのならば......離れるしかあるまい。しかしそれは簡単ではない事ぐらい、承知している。夫婦になる事は簡単だ。だか他人になる事は難しい。

 結局、二日後の昭二の帰宅は日付が変わる頃で、それからセックスをしたが、疲労して帰ってきた夫と、翌朝婦人科に遅れないようにとの強迫観念に駆られる私では、そうそううまくはいかなかった。
 翌日、婦人科でその事を告げると「じゃあ来月ですね。一歩一歩進んで行きましょ、ね、牧田さん」と肩を叩かれ、医師に笑顔を向けられている自分が哀れで目尻に涙が滲み出た。
 何と無く、何と無くだけれど、彼との間には子供は授からないような、そんな気がしていた。


 その日は午後から出勤した。上司は相沢さんという年配の女性で、不妊治療をしている事を告げると、有休でも半休でもどんどん使っていいから、と言ってくれた。
 ご自身も二人目不妊で婦人科に通い、今は成人前後の女の子が二人、いらっしゃる。
 仕事中、デスクにおいていたスマートフォンが振動した。同時に、同期しているパソコン側にも新着メールが届く。差出人は真吾だった。
『今日は時間ある? 魚が美味い居酒屋があるんだけど、どう?忙しかったら断っていいんだぞ』
 まるですぐそこで真吾が話している様な文面だったので、そこにいない真吾に向かって思わず微笑んだ。
 私は暇である旨を伝え、お店の場所と概ねの時間を約束すると、少し浮き足立っている自分に気づく。


 店の暖簾をくぐった。「藤の木」という小さな居酒屋だった。店の奥の座敷から顔を覗かせる真吾が目に入る。
「いらっしゃい」とカウンターの中から威勢よく発声する男性に会釈をして、座敷へ向かった。
「何だ、いきなり浮かない顔だな」
 いきなり弱みを握られた様で、私は苦笑するしかなかった。本当に何でも見透かされてしまって困る。
「何かあったらメールしろって言ったろ?」
 セックスがうまくいきませんでした、なんてメールする馬鹿が何処にいるか。
「夫婦関係がなかなかうまく行かなくてさ」
 努めて笑顔で伝える。これが最も的を射ていて、色々な事を一纏めにする魔法の言葉だった。ただ、奥さんに先立たれた彼に、夫婦間の話をする事は何だか気が引ける。それも読み取ったように、彼は笑いながら言うのだ。
「あ、俺の事、気ぃ遣うのなしね。何話してもいいから」
 そう言って厚い胸板をドンドンと叩いて見せたので、私はクスリと笑ってしまった。
「その顔だよ、それこそが俺が惚れた恵の顔だよ」
 恥ずかしげもなく言う彼の頭の中はちょっと、半年前のショックでネジが外れかけているのかも知れない。私は彼の向かいに座った。スーツ姿の真吾に会うのはこれで二回目だ。
「大将、刺身盛り合わせと、生中二つちょうだい」
 あいよ、と威勢の良い声が店内に響いた。
「よく来るの?」
「まあね。だいたい常連客ばっかりだよ、ここは。大将も女将さんも良い人でさ。嫁の事で落ち込んでた時も、あいも変わらず威勢の良い接客でさ。その割に、時間が空くと静かに話、聞いてくれるんだよ」
 女将さんがビールとお刺身の盛り合わせを持って座敷にやってきた。
「あら、堺さんの彼女?」
 真吾は苦笑して「違う違う、幼馴染」と言った。
「昔の彼女」とでも言ってくれるかと期待したが、それは無かった。自分がそんなバカげた事を期待している事に、自分でも驚く。



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