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月虹に谺す声
【ホラー その他小説】

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月虹に谺す声-5

 求める程に遠ざかる物。

 月郎の世界は月郎を残して何処かへと消え去ってしまった。その事は、斑毛の年老いた狼が教えてくれた。
「お前さんは人を捨てられなかった。だから門に拒まれたんじゃ。」
 月郎はしばし、何が自分の身に起こったのか理解できなかった。気を失うまでは月明かりと虹の光で昼間と思えるほど明るかったのに、今は月は雲の向こうに姿を消し、まばらな星明かりがちらちらと明滅するだけで、それは暗い森を照らし出すには余りにも小さな光であった。
「な、なんで狼が…。いや、僕も狼に」
 銀色の毛に覆われた手足を見て、驚きの声を上げる月郎。すると斑毛の狼は月郎の見ている前で、山中で出会った不思議な老人に姿を変えた。
「心配せんでも、気分が落ち着けば元の人間に戻れるわ」
 月郎は再び驚いたが、やがて、自分の置かれた立場に気が付き、謎の老人に疑問を投げかけた。
「教えて下さい。僕はどうしたんです?姉さんは!?僕は狼になったのに、どうしてこの世界に取り残されたんですっ!?」
 狼狽する月郎に、老人は憐憫の目を向けた。
「まあ、落ち着かんか。お前さんの姉さんは門をくぐって向こうの世界へ行った。お前さんは門に拒まれてこの世界に取り残された。ただそれだけの事じゃ…」
「そ、それだけの事って…。だって、僕は狼になれたんですよ!?どうして向こうに行けないんです」
「ふ〜ん、まあ、狼になれることと門の向こうに行くことが出来るかどうかは別問題と言う事じゃな。門の呼び声が聞こえたと言うことはお前さんは元々大口の真神、即ち狼の神様の眷属なんじゃよ。だから狼の姿になれた。しかし、人間であることにも変わりはない。お前さんの人なる物の部分が完全に狼の眷属になることを拒んだんじゃな…」
「そ、そんなっ!!僕には姉さんしかいない。姉さんがこの世界の全てだったのにっ!なんで僕だけ…。教えて下さい。どうしたら人を捨てられるんです?僕にとって世界は姉さんなんだっ!そうでなければ、こんな世界なんて誰にでもくれてやるのにっ!!」
 半狂乱になって悲鳴を上げる月郎。しかし、老人は静かにかぶりを振るだけであった。
「どうすれば人を捨てられるか。どうすれば向こうの世界に行けるかなんて、こちらの世界に取り残された儂には分からんよ。それが分かった者は皆、向こうの世界に行ってしまうんじゃからな…」
「そんな莫迦な事って…」
 項垂れる月郎。しかし次の瞬間、郁子を求めてやまぬ心が、文字通り谷の牙、谺となって渡り響いた。そして慟哭は静かに山に染み渡り、それは山の端が白く明け始めるまで続いた。

 そこはここ数年で開発が進んだ新興住宅街で、立ち並ぶ団地を少し離れるとショベルカーやダンプの置かれた造成地が多く見られる。繁華な場所と言えば町の中心にある大型のショッピングセンターくらいで、夜ともなれば外は静まり返り、街灯の少ない夜道を歩く者は殆どいない。
 昼間は子供達で賑わう真新しい公園も今はひっそりと息を潜め、戯れる者と言えば明滅する街灯に群がる羽虫ばかりであった。その人気の無くなった公園に。いつしか何処からともなく現れた一人の浮浪児が佇んでいた。それはここ何年も姉を求め、狼の門を当て所無く捜し続けた月郎であった。
 月郎は門の手掛かりを得ようと、狼に関わるような事件があると聞けばそこへ赴いた。そして、この町では夜毎山犬による惨殺事件が起こっていると聞き及び、それが人狼の仕業であると伝え聞いた月郎はその真偽を確かめるべくこの町へ流れ着いたのだ。
 何を思うのか、公園に現れた月郎はその静寂を破ることなく、静かにベンチに腰を下ろすとそのままじっと夜の空気に耳を傾けた。
 姉と別れて二、三年のことであったが少年の面差しは些か大人びた感じで、頬や額の骨は硬いラインを描き、伏せた瞳には暗い光が宿っていた。
 暫くの間、そのままじっと物思いに耽っていた月郎であったが、風にぎいとブランコがかしぐ音がして、はっとして顔を上げた。
 そこには蠱惑的な、赤い唇の美しい少女が立っていた。一瞬、月郎はその少女に姉の面影を重ねるが、そこに立っている少女は郁子とはまるで似てはいなかった。
 赤いルージュと同じく、エナメルの赤い服を着た少女は猫のような瞳で月郎を見下ろすと、溜息交じりに言葉を発する。
「あんた、まだ魂が抜けたみたいになってんのかい?」
 少女の名前は紅蘭。流暢な日本語を話すあたり国籍は不明であったが、彼女もまた狼の門に拒まれた人狼の一人であった。
 月郎や紅蘭のように門に拒まれた人狼達は門を求めて彷徨い、何かしら門の手掛かりのありそうな場所で顔を合わせることが多いのだ。月郎が紅蘭と出会ったのもそうした旅先での事であったが、彼は何人かの人狼の中に紅蘭が混じっていた、位のことしか覚えてはおらず、出会ったときの経緯などはまるで頭の中に残ってはいなかった。月郎には郁子と門のことしか頭にはなく、それ以外のことは些事でしかないのだ。
 そんな、我関せずと言った月郎の様子に紅蘭はむくれた顔を見せるが、やがてその愛らしく頬を膨らませた顔も溜息交じりの呆れ顔へと変化した。
 月郎は勿論無言のままであったが、紅蘭もこの魂を何処かへ置き忘れた少年に何を話しかけて良いのか分からずに、そのまま気まずい沈黙が流れた。


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