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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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23.矢部君枝-1

 休日に智樹と一緒に布団カバーを買ってきた。シングルの布団カバーには枕カバーは一つしかついて来ないから、シングルサイズを二セット。シングルベッドに二人で寝るのは正直狭いけれど、大きな智樹の胸にぴったりとくっついて眠るのは苦ではない。むしろ、だ。
 平日は一緒に起きて朝ご飯を食べ、一足先に智樹が出かける。何しろ通勤に一時間以上掛かるのだ。私は二駅しか離れていないのでゆっくり出発する。帰りは勿論私の方が早く帰るので、スーパーに寄って食材を買い、夕飯を作って智樹の帰りを待つ。その間にお風呂を洗ったりする。
 一緒に住んでいたって、会話する時間なんてほんの少しだけど、それでも日常生活を一緒に送っているというのはとても嬉しい事で、自分宛の手紙がポストに入っていた時は、小躍りする程嬉しかった。
 休日、ちょっと買う物がある、と言って珍しく智樹が一人で出かけた。私はたまった洗濯物を片付けたりしながら帰りを待った。
 一時間もしないうちに、インターフォンが鳴った。智樹なら鍵を開けて入ってくる筈だけれど、再びインターフォンが鳴る。宅配業者かと思い、覗き穴から覗き見ると、きれいな女性が立っていた。
「はい?」
 ドアを開けるとその女性はあからさまに顔を顰め、「あれ、ここ久野君の」と言う。
「久野智樹の家ですけど、智樹に用ですか?」
 彼女は値踏みをするように私を上から下まで見たあと「久野君とお付き合いされてる方ですか?」と顔色を伺うように言うので「はい」と答える。
「あぁ、もしかして同棲?」
「そうですけど、どちら様ですか?」
 私は少し大袈裟に訝しげな表情をした。名乗りもせずに何なのだ。
「設楽と言います。久野君にそう言えば伝わると思います。別に用事はないので失礼します」
 そう言うとくるりと踵を返して階段を下りて行った。

「設楽さんって言う人、分かる?」
 智樹の顔が露骨に引き攣った。「うん、分かるよ」
「さっき家に来たんだよ。別に用事はないとか言ってたけど、会社の人?」
 引き攣ったままの顔で「まぁ」と不明瞭に言うので、推測の域を出ないが「付き合ってた人?」と訊いてしまう自分の口が憎たらしい。
「君枝には言ってなかったよな、ごめん」
 そう言うと、買って来た物を棚において、床に座ると、口を開いた。
「入社して割とすぐに、付き合ってくれって言われてさ。君枝が加藤君と飯食ってた日、あの後かな、別れてくれって俺から言ったんだ。好きな人いるからって」
 私が何も言えないでいると、彼はデニムのポケットから携帯を取り出した。
「ここについてた革のストラップ、その思い出の人? って訊かれて、そうだって答えた」
 私の事が忘れられないと言っていたくせに、別の女と付き合っていたと言うのは何とも不愉快な事ではあるけれど、過去なのだと思って忘れるしかないのか。智樹の事だからきっと「好きって言われたから付き合った」それだけの事なのだろう。私があれやこれや考えていると、智樹が私の隣に移動して来た。
「相手に好きになられても、俺が好きになる事は難しいんだ。俺は、自分が好きだと思わないと、だめなんだ。だから君枝なんだ。何か、遠回りしたな」
 ぽりぽりと首元を掻きながら困ったように笑う。私は彼の両頬をぎゅっとつまんで「もっと早く話しておいてくれたら良かったのに」と憎まれ口を叩いた。
「いやぁ、あいつが直接家にくるなんてな。やめてくれって言っておく。もうアドレス消しちゃったからメールは出来ないから、明日総務部まで行くようだな」
 私は思わず彼の手をぎゅっと引っ張った。これ以上離れて欲しくない。絶対に間違った方向に引っ張られて欲しくない。智樹は、自分が思っているよりも周りの女に引きずられやすいのだ。
「会わなくていいから。今度うちに彼女が来たら、もうこないでくださいって言えばいいでしょ。あえて智樹が言いに行く必要ない。お願いだから、やめて」
 いい終えると、智樹は私の頭をぽんぽんと触って抱き寄せた。
「心配性」
「心配させるのは智樹でしょ」
 ふっと笑って智樹は夏の西日に顔を顰めていた。


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