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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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8.太田塁-1

「なぁ、智樹の事、気になるでしょ、矢部君」
 俺は自然な呈で隣に横たわる矢部君の首の下に腕を差し込む。こんな事したの、始めてだけど、部屋は暗いから俺の顔の色が変わったってばれやしないだろう。
「気になるけど、もう終わった事だから」
 それはとても煮え切らない語り口で、矢部君の中でも結局まだ終わっていないんだという事は丸わかりなのだ。智樹も矢部君も、お互い思い合ってる癖に、別れ、一年が経過してしまったんだ。無駄な、一年間。
「終わってないくせに」
 俺の言葉に腕の中の矢部君が一瞬息を止めるように固くなった。分かりやすい女だ。
「塁はさ、こうして私と一緒の布団に入ってても、そういう気にはならないの?」
 俺は自分の股間を探った。それはそれは元気に活動している。そして彼女を挟むように抱き寄せる。
「ならなくはないよ。ばれないように股間に挟んでんだ、棒を」
 ケラケラと矢部君が笑い声を上げた。俺は嘘を言っていなかった。身体を求めたりしないって言ったからには、それを貫こうと思った。俺が如実に反応している事を矢部君が知れば、失望するか、そうでなければ「やってみようよ」とか突拍子もない事を言い出すかも知れない。そんなのは、ごめん被る。
「こうやって隣にいるだけで俺は幸せだ。俺にしてはかなり正直な物言いだぞ。メモっとけ」
 また笑い声があがった。矢部君が幸せなら俺も幸せだ。そんな矢部君を幸せに導いている智樹が、そこにいる筈だったのに。俺の好きな智樹。あいつは幸せのトライアングルから、勝手に抜けやがった。
「そんじゃおやすみ」
「おやすみ、塁」
 二人きりで夜を過ごすのはこれが初めてだなと、ふと思う。矢部君は智樹と二人の夜を、一体幾度過ごしたんだろう。智樹にも妬けるし、矢部君にも妬ける。
「バカ」
 そう言って俺は矢部君に馬乗りになって唇を重ねる。驚いたようにびくんと、矢部君の身体が跳ねた。俺は挟んでいた俺の倅の事にまで意識が回らなかった。
 そして眠った。

「塁」
 声が降って来て、ぼんやりと目を開けたそこには眼鏡をかけた矢部君がいた。
「朝ご飯買いに行くんじゃなかったの?」
「ん、何時だ」
 首をひねって仕事場の時計を見ると、九時をさしていた。ぐーっと伸びをして矢部君に両手を差し出すと、やれやれと言った表情で俺の腕を引き上げてくれる。矢部君は俺が貸した部屋着から、昨日着ていた服に既に着替えた後だった。
「何時に起きたの」
「七時」
 唖然として矢部君を見つめた。二時間も、こいつは何をやっていたんだ。
「起こせば良かったでしょうが」
「起こしたのに起きなかったのは塁でしょ」
 あぁ、と合点が行く。そうだ、俺は起こされたってそうそう起きないんだった。フランスでの、朝も夜もないような生活で、眠い時に寝て、活動する時に目が覚めるという人間の摂理にかなった生活をしていたせいで、俺の悪い体質に更に拍車が掛かったわけだ。
 俺は着替えを済ませ「待ってて」と言って財布を手に部屋を出ようとしたけれど、矢部君もとことこついて来たので、一緒にコンビニまで歩いた。
「塁、寝癖ついたまんまでコンビニ行くんだね」
 俺は大抵いつも直す事になる右側の髪に触れ、いつも通りぴょこんと跳ねている事を確認すると「そうです」と返事をした。
「さぁ、好きなパンを選びなさい」
 そう言うと矢部君は、スタスタとパン売り場から離れて行き、冷蔵コーナーから何かを手にして戻って来た。
「卵焼きとサラダ、作るから」
 そう言ってかごにパック入りの野菜ミックスと四つしか入っていない卵を入れる。おぉ、何だか恋人同士の買い物みたいだ、と胸が高鳴るのが鬱陶しい。


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