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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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9.久野智樹-1

 唯香の買い物に付き合わされる事はよくある。大抵は駅前の百貨店の化粧品売り場だったり、洋服売り場だったり、男としては存在を消したくなる場所である事が多い。自動ドアが開くとともに、香水みたいな強烈な匂いが鼻を突く。今日は化粧品か。
「新しい口紅が出たって話でさ。ちょっと色選びに付き合ってよ」
 さすがに「やだよ」なんて言えないから仕方なく後ろからついていくと、カウンターのような所に一緒になって座らされる。
「新色は全部で八色になります。どちらかお試しになりますか?」
 カウンターの中にいる厚塗りの女性が唯香に口紅を勧めている。八色もあるのか。まさか片っ端から塗るんじゃないだろうな。
 結局二色を塗ってみて「どっちがいい?」と訊かれたので俺は「違いが分からない」と正直なところを言ってやった。事務職の彼女がこんなにパッキリした色の口紅を、どこにつけていくのか、俺には分からない。
 どうやらそれに似合うアイシャドウも勧められているようだったので「ちょっと、終わったら電話して」と言って席を外した。
 君枝は化粧っけのない女だった。社会人になった今、化粧をしているんだろうか。するにしても、百貨店に入っているような高い化粧品は使わなそうだなと想像する。少し店内を歩き、携帯の画面に着信の表示がない事を確認する。
 ふと目に入った、革製品のお店に吸い寄せられるように足を向ける。店に入ると「いらっしゃい」と中年の男性がにこやかに声をかけて来たので、何となく会釈する。
 沢山のポーチや携帯ストラップが売られていたが、俺が目を奪われたのは、ガラスケースの中だった。思わず、自分の携帯を取り出し、ガラスケースの上から見比べる。
「そのブレスレット、当店でお買い求めの品ですよね?」
 店員が革靴をならして近づいて来た。
「あ、分かんないんです。あの、貰い物で」
 ちょっと失礼、と言って俺のブレスレットを手にした。
「二年から三年、ぐらいですか。使い始めて」
「はい、二年前のクリスマスに貰ったんです」
 そうですか、と柔らかな笑みでブレスレットを見つめている。
「これね、私がここで、自分で作ってるものなんです。クリスマスの時期になると、恋人同士のプレゼントにお勧めしてるんですけどね、毎年買って行くのは一人か二人。だからよく覚えてるんですよ、買って行ったお客さんの顔」
 ゆっくりとした語り口に耳を傾けていた。この店で、君枝がおどおどしながら品物を選んでいる様子がありありと浮かぶ。
「二年前のクリスマスには、何本売れたんですか?」
「一人の女性が二本、買って行きました。そのうちの一本だね、これは」
 俺の顔をじっと見て、ふっと笑った。俺も何となく頬が緩む。そこでは確かに君枝と俺がいた時間が存在していた事を確認できる。
 と、ガラスケースの上に乗った携帯がジジジと震えながら動いた。
「すんません、また今度きます」
 そう言って俺は店を出た。

「何してたの?」
 腕に絡み付いて俺の顔を覗き込む唯香の顔は、さっきより格段に化粧が濃くなっていて驚いた。
「ちょっと、ぶらっとしてた」
 ふーん、と言いながら、俺から目を離さない。
「何?」
「あのさ、何か私に言う事ない?」
 目をキラキラさせて、きっとこう言って欲しいんだろうと予想して、言いたくはないけれど仕方なく「化粧、似合ってるよ」とそれとなく言う。腕に込められる力が更に強くなり、彼女の胸の隙間に俺の腕が吸い込まれる。

 好きだと言われて付き合う相手と、好きになって付き合う相手。俺は露骨に態度が違う。よくない癖だ。そもそも自分が好きになっていない相手と付き合うというスタンスが、間違っているんだろうか。好きと言われたら自分も好きになる、そんな事も世の中にはあると思うのだけど。今回に限ってはそう言う事はなさそうだ。唯香のためにも、別れを切り出した方がいいのかも知れない、そんな風に思えてくる。
「ねぇ、今日も泊まってっちゃ駄目?」
「今日、友達と会う事になってんだ、ごめん」
 どんな理由だって良かった。彼女から少しずつ離れて行こう。だけどその場で「終わりにしたい」そう言い出せないのが俺の悪いところなのだなと、自覚している。いい格好しぃなんだろうな、と自嘲気味に笑うと、唯香が訝しげな顔で俺を見た。


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