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深海の熱帯魚
【純愛 恋愛小説】

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.21 矢部君枝-2

「夜の海って、あんまり歩いた事無いや」
 私は砂を蹴りながら、智樹君の斜め後ろを歩いた。ビーチサンダルと足の隙間に砂が入り、ざらざらとして歩きにくい。 「智樹君は?」
「俺は合宿の時ぐらいかな。歩くっつーか、走ってたけど」
 ハハハと二人して笑う。波の音が、行ったり来たりする。何となく濡れていない砂地だけを選んで、浜の端を目指して静かに歩く。

「ねぇ、塁の事、好きなの?」
 穏やかな声で、ただし鋭く切るような問いに、私は戸惑った。
「え?好きって?え?何で?」
 彼の顔は見えない。私は少し足を早めた。追いつこうとしたが、砂地ではなかなか彼に追い付かない。
「さっき玄関んとこで、二人で話してたでしょ。何かあったのかなって」
 波の音で声が大きくなったり小さくなったりするが、きちんと聞こえる。悔しいけれど、全部聞き取れる。彼の質問に対し、私は私自身に問いかけなければ答えが出せなかった。
「まだ、分からない。好きになるかも知れない。でも、塁を好きになっても、塁には好きになって貰えないの」
 今分かる範囲で答えられる事を全て答えた。彼は足をばたりと止めて、こちらへ振り向いた。
「何で?」
 小首をかしげている。
 好きになっても、好きになって貰えない事が分かってるなんて、それは「何で?」って、訊きたくなる状況だ。でも、言えない。これだけは言えない。
「何でかな。分からない。そんな気がする。塁の事を好きになるかも知れないっていうのも、まだ未確定だしね。ほら、男の人苦手だし」
 私が苦笑すると、彼は俯きながら少し笑った。整った顔立ちが、海岸の照明に照らされて映える。また彼は身体を翻して歩き出した。私も後を追う。
「もうさ、俺達位の年齢になってくると、相手が自分を好きになってくれないって分かってたら、恋愛できないよな」
 まさに自分がそういう恋をしてしまうかもしれない私は、何も返事が出来なかった。塁を好きになるかも知れない。好きになって貰えないと分かっている。何故なら塁は、智樹君の事が好きだから。
「だから至って凄いと思うんだ。拓美ちゃんが森って助教の事好きだって分かってても、まだ好き好き言ってんだよ?狂ってる」
 狂ってると言う言葉の響きが何だか可笑しくて、吹き出してしまった。
「狂ってるね、確かに。でも羨ましいけどね。そういうの。一途で」
 海岸の端まで到着した。その先は松林が続いている。民宿は真逆の端にある。今度はそこを目指して歩く。
 また智樹君の斜め後ろを歩いていると、智樹君が急に足を止めた。
「手、繋いで歩こう」
 そう言って長く細いのに筋肉質の腕をこちらへ伸ばしてきた。
 一瞬躊躇った。男だからではない。好きな人がいると言っていた智樹君だから。塁ではなかったから。
「リハビリ」
 私の腕をぐっと掴んだ智樹君は、指を絡めた。そのまま、引っ張られるように砂浜を歩いた。星がいくつも見えて、そのうちの幾つかは海に映るんじゃないかというぐらい、明るく瞬いていて、その明るさが何故だかとても羨ましかった。

「俺も至と同じような恋をする事になるかも知れないんだ」
 手を引きながら、そう言うので「どういう事?」と訊ねる。
 私は智樹君の早いペースについて行くのがやっとで、考える余裕が無かった。
「好きな人が、別の人を好きみたいなんだ。でも諦められなくて」
 智樹君が、あんなに美人な彼女を振ってまで手に入れようとしている、地味な女。握っている手が、急に熱を持つ。
「智樹君、好きな人がいるのに、私なんかと手、繋いでちゃだめだよ」
 智樹君は何も答えない。答えない代わりに、繋いでいた手を更にぎゅっと強く握る。
「智樹君?」
 私は彼に追いついて顔を覗き込もうとするが、それもかなわないぐらい、彼の歩みが早い。渾身の力を込めて私は走った。砂を蹴って走って彼の前に回り込んだ。
 息を切らせて見上げた彼の頬は、月明かりと照明に照らされて、今までに見た事が無いぐらい、引き攣って、真っ赤に染まっていた。
「どうしたの......」
 手を繋いだまま、呆けたように彼の顔を見ていると、さっと横を向いて顔を隠した。
「何でもない。急いで歩いたから暑くなった」
 涼しい海風が頬を掠める海岸線で、暑くなったという言い訳は何だか、彼らしい嘘だなぁと思った。


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