それぞれの行き着く場所-16
カーテンから漏れる柔らかな光がゆっくりと部屋を満たしていく。
ころん、と寝返りをうったベッドの広さにハッとして目が覚めた。
脱いでいると思ったバスローブはきちんと腰ひもが結ばれている。
いつもと同じ自分の部屋。
『………夢………』
ぼんやりとした頭で記憶をたどった。
三田村に抱かれる夢を見たのは何週間ぶりだろう。
川瀬が死んでからは、毎晩バックルームや坂田会で凌辱される夢ばかり見ていた。
こんなに穏やかな気分で目覚めたのは本当に久し振りかもしれない。
ふとベッドサイドにある姿見を見ると、泣きつかれて腫れぼったい目をした自分が映っている。
ドライヤーをかけないで寝てしまったせいで、髪には少し寝癖がついていた。
「……ひどい顔……」
今日が休日でよかった。
こんな顔ではとてもフロアに立てない。
改めて鏡に向き直り、髪を撫で付けようとした時、バスローブの衿元から何か紅いものがのぞいた。
「…………えっ…………」
そうっと衿を開いて見ると、ちょうど鎖骨の少し下あたりに、1センチ四方ほどの紅い痣のような跡がいくつかついている。
「こ…れ……」
それが三田村のつけたキスマークだと気付くのに、少し時間がかかった。
「三田村……く……ん」
昨夜の出来事は、夢ではなかったのだ。
鏡に映る自分の顔に、みるみる生気が蘇ってくるのがわかった。
何か三田村の痕跡がないか、部屋の中をぐるりと見渡す。
立ち上がって玄関に近づいた時、たたきに何か落ちているのが見えた。
拾い上げてみると、それはいつも玄関のキーボックスの中にかけてある、この部屋の鍵だった。
三田村が部屋を出る時、外からこれで鍵をかけて、ドアポストの中に落として行ったに違いない。
ぶっきらぼうだけど優しい、三田村らしいやり方。
あいり一人を残して帰らなければならない部屋に、ちゃんと鍵をかけてくれた―――そんな些細な優しさが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
時計を見ると、午前9時を回ったところだった。
三田村は、もう大阪へ向かったのだろうか。
二度と会えないという切なさが込み上げて、胸が苦しくなったが、妊娠したという婚約者に対する敗北感や嫉妬心は、いつの間にか消えていた。
冷たい水で顔を洗い、寝癖を直すと、気分がすっきりした。
悩みながら、苦しみながら、それでも三田村がここに来てくれたことに、心から感謝した。
心が手に入らないと思っていた時は、肉体が欲しくて仕方がなかった。
しかし今は、まるで憑き物が落ちたように、心身が深く満たされている。
もう涙は流れなかった。
クローゼットを開けて、シンプルなワンピースに着替える。
ずっと訪れるつもりがなかった場所へ、初めて行こうと思った。
K市を一望できる高台にあるその場所は、想像していたよりもずっと小綺麗なところだった。
無縁墓地というと物寂しいイメージを抱いていたが、供養するべき人間がいながら、ろくに守(も)りもされず、荒れ果てている墓よりはずっと幸せなのかもしれないと思った。
無数の地蔵が寄り添うように並べられた小さなスペースの中央に、穏やかな表情の観音菩薩像が立っている。
この中のどこかに川瀬がいるのだろうか。
赤いよだれ掛けをつけた小さな石仏たちは川瀬昭彦のイメージからは程遠かったが、どんな人間であろうと、魂だけに戻ればこんなふうに無邪気に戻るものなのかもしれない。
菩薩像の前にある献花台に花と線香を供え、静かに手を合わせた。
自分が三田村に救われたのと同じように、誰よりも孤独だった川瀬を救うことが出来たのは、もしかしたら自分なのかもしれない―――。
そう思うと胸が痛んだ。
川瀬が死んで以来初めて――心から弔いたいという気持ちで、あいりは長い時間、そこでじっと手を合わせていた。
お参りを終えて帰ろうと振り返った時、不意に突風が吹き荒れ、あいりの耳元で風が唸った。
「―――行くな―――」
一瞬、あの妖しい声でそう言われたような気がして、あいりはハッと振り返る。
そこには一陣の風が巻き上げた落ち葉が、一枚舞い上がっているだけだった。
END