カオルB-1
「いいか!この図形は、ここと、ここに、補助線を降ろせば、二つの直角三角形と……」
地域にあるコミュニティ・センター。宿泊施設も備えたこの場所で、真由美たちは合宿初日を迎えていた。
講師の熱心な説明。皆は、真剣な面持ちで一言々を逃すまいと聞き入っているのに、彼女はひとり、別の事に思いを巡らせていた。
(わたし、何であんなことしちゃったんだろ…)
それは、昨夜の出来事──何故か、女装をした弟と口唇を合わせてしまった事だ。
いつもは、そんな姿に高鳴りなんかない。哀れみと蔑みの心だけだ。
それが、昨夜に限っては身体の中がカァっと熱くなって、気が付けば弟を抱き寄せていた。
──いや。あれは違う。
(あの、濡れた瞳に見つめられた瞬間、わたしの中で抑え切れない何かが溢れ出したんだ…)
真由美は口唇を噛む。
(わたしはあの子を蔑む一方で、その容姿に愛しさを感じたんだ…)
湧き上がる考えに問いかける。がしかし、彼女自身、何故、そんな感情を持ったのかは解らない。それが尚更、思考を巡らせた。
そんな、“心此処に在らず”な様子に気づいた者がいた。
「藤木ッ!なに、ボーッとしてんだッ」
講師から、叱責の言葉が飛んできた。
「す、すいません!」
真由美は、弾かれたように立ち上がると深く頭を下げる。
(なにやってんだわたしは。授業中に…)
神妙な面持ち。が、しかし、講師は尚も容赦無い言葉を浴びせ続けた。
「ここで、しっかり基礎を身に付けてないと、来年は泣くことになるんだぞ!分かってんのか!」
教室の仲間逹からは、彼女への冷やかな眼が集中していた。
屈辱的ともいえる状況の中、真由美は再び頭を下げると、
「すいません!以後、気を付けます」
席に座り直して、首を2、3度横に振った。
(しっかりしろ!わたしは。つまずく訳にいかないのよッ)
強く気持ちを奮わせて、再び黒板に目を向けた。だが、その身体の芯は熱を帯びていた。
真由美が落ち着かない授業を受けている頃、母親の須美江は、自宅で忙しい時刻を過ごしていた。
「しょッ、しょッ…と」
洗濯機は2回目の運転中。傍らには、たった今、洗い終えた洗濯物がカゴの中だ。
「よっと!」
家族4人分の朝食と洗濯。それらをこなして、彼女は夕方までのパートに出る。一家を影で支える者には休む暇も無い。
須美江は、洗濯カゴを持つと、庭先に通じる勝手口のドアを開けようとした。
すると、
「お母さん!」
薫が後を追いかけて来た。