肉体の取引 前編-6
「……私……帰ります!帰して下さい」
精一杯の力を振り絞って起き上がろうとしたが、やはり手足は全く動かない。
「……こ…こんなこと…許されるはずありません……」
羞恥に震えながら涙声で訴える慶子。
しかし川瀬は冷酷な表情を動かさずに淡々と言い放った。
「―――勘違いしてもらっては困る。これはあなたのための取引なんですよ?」
「………私の……ため?」
「さっきのビデオ――あなたの勤務先の出版社が喜びそうなネタですよね」
「……そ…それは……」
一流企業の社員が犯した破廉恥な性犯罪―――その手の持ち込みネタは、実際週刊誌の記事になりやすい。
性的スキャンダルというのは、男性読者も女性読者も、みんな大好物なのだ。
取材が入れば加害者の身元は詳しく調べあげられることになる。
その男が慶子の婚約者だということが社内に知れ渡ってしまえば、もう自分はあの会社にいることなど出来なくなるだろう。
インターネットなどで実名が晒されてしまえば、三田村自身も職を失い、社会的生命を完全に絶たれてしまうことになる。
出版社に勤めるようになってから、慶子は実際そういう人物をたくさん目の当たりにしてきた。
しかしまさか自分がその立場になってしまうとは―――。
抗い難い非道な罠に自分が落ちてしまったことを、慶子はようやく気付いたのだった。
「あなたはただ寝ていればいい―――これで三田村が犯した罪が全て赦されるなら、簡単だとは思いませんか?」
「……罪……」
その重々しい言葉が慶子の心を縛り付け、抵抗する気力を一気に奪っていた。
毎日テレビで報道されている様々な事件は、実は氷山の一角で、実際には表沙汰にならない犯罪が山のようにある。
『そういう隠れた犯罪にメスを入れ、社会的な制裁を与えるのも出版業界の使命だ』
尊敬する上司である塚田が、以前そう話しているのを聞いたことがある。
その罪を犯したのが、慶子の愛する三田村だと知った時、塚田はどんな顔をするだろうか―――。
「あなたと彼の運命は―――私が握っている。それをどうするかはあなた次第ですがね」
あまりにも理不尽すぎる川瀬の要求―――。
しかしあのビデオテープが川瀬の手元にある以上、その取引に応じるしか手立てはないように思えた。
三田村は本当は誰よりも誠実で優しい男だ。
学生時代からずっと側にいた自分には、それが一番よくわかっている。
不器用で真っ直ぐで、慶子のためならどんな時でも全力で身体をはって守ってくれた三田村。
その彼が出来心であんなことをしたのは、自分が彼女として至らなかったせいに違いない―――。
「女として未熟だった」という自責の念で、慶子は必要以上に追い込まれていた。
愛する三田村のために強くならなければ――――。
その一途すぎる思いが、ついに慶子に腹を決めさせた。