彼岸の空-2
『ええい……しょうがない……』
私はトイレに立つふりをして廊下に出た。
「……もしもし?」
事務所に聞こえないように気を使っているため、自然と私の眉間にはシワがよっている。
「ああー。久美子?仕事中やなかったぁん?」
私の心配をよそに、いたって呑気な母の声が聞こえてきた。
『そう思うんやったら今かけてこんといてよっ!』
と怒鳴りたい気持ちをぐっとこらえ、
「なんよ?今仕事中や!」
いらいらしているため早口になる。
「あぁ。あんた忘れてると思うけど、もうすぐお父さんの命日やから、休みとれへんのかなぁー思てなぁ。」
その決めつけたような口調についカチンとくる。
私がお父さんの命日を忘れたことなんか一回もない。
私だって帰れたら帰りたいと思って休日願を出してる。
だけどどうしようもない会社の事情もよくわかっているからこそ、断られても文句を言わないで我慢しているのだ。
いつも命日に帰れないからってそんな言い方しないでほしいのに。
私は全てのことにイライラしていた。
「いっつもゆうとるやん!私はその日は休めんのよ!」
ついきつい口調で言ってしまってからすぐ後悔する。
一瞬の沈黙――――。
黙りこくる母の姿が目に浮かんで私はちょっと慌てる。
「お、お兄ちゃんは?なんて言うとるん?」
「ああ。清史はだってホラ、今年も学校が忙しいから。部活が春休み入ってから帰って来るって。昨日電話あったわ」
兄の清史は教師をしている。
幼い頃家が貧しくて中学校しかでることが出来なかった母にとっては自慢の息子なのだ。
命日に帰れなくても私に対してほど風あたりはきつくないだろう。
兄への劣等感で一瞬私がむっとすると、母が急に機嫌をとるように続ける。
「それよりこっちにめちゃめちゃおいしいシュークリームの店ができたんよ! 墓参りはまぁ別にいいとして、こっち来たとき一緒に食べようなぁ。えーと…確かなぁ『ロッシュー』?とかいう名前の……」
このあたりからはもう無意味な会話だ。
相槌をうっていると何十分つきあわされるかわかったものではない。
「――とにかく、私も週末には帰るし。もう仕事中やから切るよっ!」
私は一方的に言って電話を切った。
『もう……帰れないものはしょうがない!』
父の命日云々よりも新しいシュークリームの店のほうが大問題といわんばかりの母の口調に私の気は少し楽になった。
父は仏教をあつく信仰していたが、母は仏教的な行事はあまり好きではない。
それは生前ほとんど家庭をかえりみなかった父への、母のささやかな抵抗であることを私は幼い時から気付いていた。
『墓参りよりシュークリーム』というのはあながち冗談ではないのかもしれない。
「さて。……仕事仕事!」
私は気持ちを切り替えると再びデスクに戻って午後の仕事にとりかかった。