B-8
「まあ、2日は泥を吐かせにゃならんから…」
雛子は、母親に耳打ちするような声で云った。
「あの…その鯉、少し分けて頂けます?」
理由が解った途端、母親は大きな声で笑った。
「先生様は面白いなあ。とても先生には見えん!」
そう云って再びの笑い声。雛子は、顔を赤らめる。
「自分でも、そう思います…」
来る時は怖々歩いた狭道だが、帰りはそうでは無かった。
(きれい…)
木々の間から覗く夜空は、星が瞬いていた。
もやもやした気分は無かった。少なくとも、今の雛子には。
翌日昼。
「先生?」
雛子は、いつものように野良着姿で哲也とお昼を摂っていた。
「なあに?」
「畑作りは、いつからやるの?」
「え〜と、そうねえ…」
訊ねる哲也。雛子は、ちょっと考えてから、
「あと3日は家庭訪問だから、来週からの“田植え休み”の間でどうかしら?」
田植え休み。
この美和野村では、毎年5月中旬に田植えを行う。田植えは農家にとって、最も手間のかかる作業だ。だから、子供も含めて一家総出の作業となる。
その田植えを行う1週間は、学校も休みになるのだ。
雛子の提言に、哲也は頷いた。
「分かった、来週だね。母ちゃんにも云っとくよ」
「お願いね」
「ところで先生、明後日は何時頃に帰ってるの?」
再びの問いかけ。雛子は視線を上にして考える。
「えと…多分5時、いや5時半かなあ」
「だったら、その時刻に持って行くから」
「持って行くって、何を?」
どうやら忘れてるらしい。哲也は呆れたように口にした。
「何って、鯉だよ」
「ああ〜!そうだったわねえ」
思い出した雛子は、慌てた形相で哲也を見た。
「そんな!悪いわ。私が取りに伺うから」
必死に拒むが、哲也は気にした様子も無い。
「大丈夫。母ちゃんからも云われてるから」
「でも…」
ちょうどその時、昼休みに終わりを告げる予鈴が鳴った。
「さあ、先生。昼休み終わったよ」
哲也は立ち上がると、「ご馳走様でした!」と告げて、教室への道を駆けて行った。
その姿を目で追いながら、雛子の中に“ある考え”が浮かんだ。
(この機会を使ってみよう…)
校長の高坂が云う、“実績作り”の機会が来たようだ。