続・せみしぐれ〜color〜(後編)-24
異変は、玄関を一歩入ってすぐに気がついた。
いつもの、朗らかな明るい雰囲気とは全く違う、異様な緊張感。
「…なんだろう」
不安に思いながら靴を脱ぎかけ――息が、止まった。
そこに、見慣れた男物の革靴。
「これって…!」
「――おかえり、千波」
真夏だというのに、全身が凍り付いた。
背中に感じる粘着質な視線に、全身が総毛立つ。
「…あ…なた…」
振り向けば、眼鏡の奥の瞳を光らせこちらを見つめる夫の姿が――そこに、あった。
「待っていたよ。全く、なかなか帰ってくる様子がないから、忙しい時間を割いて僕から来てしまったじゃないか」
笑いながら近づく足音。
やがて、その手が伸びて…私の二の腕を掴んだ。
――あぁ、とうとうこの日が来てしまった。
もう少し…せめて、今日一日だけは、幸せの余韻に浸っていたかったのに。
「さぁ、千波。ママも待ってるから、家に帰るよ」
「…帰らないって、言ったら?」
振り向きざまに、夫の右手が私の頬に飛んだ。
「何をバカなことを…!」
空虚な目をして、私を見つめる男。
…やっぱり、何も変わっていなかったのね。
思い通りにならなければ、暴力で解決できると思ってる人間。
「千波!」
「…おじちゃん…?」
「帰ることねえ!!お前、こんな男のところに帰ったら、今度こそ殺されちまうぞ!」
奥から走り出てきてくれたおじちゃんは、私を、その背中に庇ってくれて。
後から続いて出てきたおばちゃんが、倒れていた私を抱え起こしてくれた。
(おじちゃん…おばちゃん…)
「――桜田さん!!」
ヒステリックに夫が叫ぶ。
「あなた方には、妻が世話になった礼を述べ、こんな小汚い民宿の宿泊代には充分すぎる金をお支払いしたはずだが!」
「あぁ、これか?」
おじちゃんが、封をされたままの一万円札の束を放り投げた。
「…松下さん。確かにうちは小汚ねえ民宿だが、それでも、人を人とも思わんような汚ねえヤツに、汚れた金を払ってもらうつもりはねぇのよ」
「何をふざけたことを…!千波、帰るぞっ」
「い、痛いっ」
夫が、床に座る私を乱暴に引き上げた。
「――千波っ!」
「は…い…」
「おいらたちがここに泊めたのは『お前』だ。お前の宿代は、お前が払わなきゃなんねぇ」
「おじちゃん…?」
「そうだよ、千波ちゃん!あんたは今、無銭飲食の状態なんだからね」
「おばちゃん…」
おじちゃんの目が、真っ直ぐに私を見つめる。
おばちゃんが、泣いてる。