凪いだ海に落とした魔法は 3話-9
「分かった」
逡巡した後、僕は了承した。義務心と好奇心が警戒心を打ち砕いたのだ。どうなろうと知ったことか。なるようになってしまえ。
「いいのね?」
「穏やかな会談になるのなら」
「私ほどニュートラルでフラットな人間はいないよ」
「そうかな」
「そうよ」
「まあいいや」
日下部は満足したように口を斜めして笑ったけれど、それはやはり作り物めいた笑みだった。
さんざめく光に浸かった夏の教室の中で、彼女の笑顔だけが冷気を放っているように僕は感じた。氷の欠片がゆっくりと溶けて、一瞬だけ光を放った後で音もなく消えていくような、そんな儚さを湛えているようだった。
「それで――」と彼女は言った。鮮やかな手品のように、物憂げな影は消え去っていた。僕の気のせいだったのだろうか。
「彼、今日はもういないの?」
「どうかな。分からないよ。電話で確認してみる? それとも、夜にでも沢崎の家に乗り込もうか」
「そいつの家に? あまり気は進まないけれど」
「小さい飲食店を経営してるんだ。ゆっくり話せると思う」
「ゆっくり話がしたいわけじゃないよ。でも、まあ、何だっていいや。椅子を投げても大丈夫な場所なら」
「冗談に聞こえないんだけど、椅子を、投げるの?」
「向こうが投げさす態度なら」
「穏便に行こうよ」
「努力はする」
日下部の場合、椅子を投げるという暴挙は荒事の内に入らないのだろうか。さっきまでは荒事にする気はないと言っていた気がするのだが。
「え〜と、待ち合わせとかどうしよう」と僕は言った。
「どこら辺にあるの? 彼の家は」
僕が沢崎家であるドライブインの場所を説明すると、日下部は二回だけ小さく頷いて言った。
「そう。じゃあ、そこの近くのコンビニでいいんじゃない?」
「行ったことあるんだ? あの付近に」
「あるよ。それで、あなた足は?」
「足って、移動手段?」
「そう。別にあなたの健康状態とか足のサイズとか訊いてないからさ」
平坦な声で彼女は言う。言葉はきつめだが、それを不快に感じないのは、愛想のない機械に腹を立てる奴がいないのと同じことだ。
「いつもは原付バイクだけど、今回は日下部もいるし。自転車で行こうかな。歩いて行くには少し遠過ぎるし」と僕は言った。
「ああ――別に気にしなくていい。なら私もそれで行くから」
「それでって、二人乗りには少し厳しいよ」
「バイクで行くって意味だよ」
「え?」
僕はハッとして彼女の顔を見た。相変わらず無表情な顔がそこにはあり、それを見詰める僕はひどく間の抜けた表情をしていたのだろう。