凪いだ海に落とした魔法は 3話-83
僕は胎児のように丸くなり、必死に頭の中から日下部の白い肌を追い遣ろうとしていた。長い脚を、桃色の唇を、豊かな胸の膨らみを、その全てを頭の中から消そうとする。曇りガラスを磨くように無意味な努力だった。煩悩は汚れを拭き取るように消えてはくれない。それを自力で消すには然るべき作業による排出が必要だったが、この状況でそんな行為に及ぶことなどできるはずもなかった。僕はただ苦悶に耐える修行僧よろしく、固く目を閉じ、暗闇の中で煩悩の熱が冷めるのをじっと待っていた。
――私とセックスしたい?
耳の奥でリフレインされる、甘美な誘惑の声。その音声は、僕の意思とは無関係に何度も自動再生を繰り返し、やがてひとつの疑問を僕にもたらした。
もしも、此処が沢崎の部屋だったなら、日下部は同じ問い掛けを彼にも投げたのだろうか。
彼女の言葉が愛から生まれたものでないことは分かっている。
それは飽くまでも局地的な衝動であり、場所が変われば相手も変わるものではないのか、という不安感が胸の中でぐるぐると渦巻いている。醜い欲望と身勝手な嫉妬が、心の中でマーブル模様を形成して僕を苛んでいた。
日下部沙耶に取って、志野俊輔とはどんな存在なのだろう。小さな罪の共犯者。行き場のない淋しい夜に頼れる相手。義理で体を許せる相手。それだけでは、僕は満ち足りていないのか。その先を、望んでしまっているのか。どうしてだろう。分不相応の恋ならば、欲張った代償に、手痛いしっぺ返しが控えているのはお約束じゃないか。忘れてしまえばいい。こんな感情には知らない振りをして、忠実な、都合のいい飼い犬を演じていればいいのだ。
長い沈黙。考えたくもないのに、沢崎の部屋で、日下部が裸になる姿を想像していた。薄明かりの中、沢崎の躰の下で、堪えきれずに媚びるような甘えた声を漏らす日下部沙耶。
それは彼女の相手が僕であるという仮定よりも、ずっとリアリティのある絵だった。幻想というよりも、むしろ予言めいたイメージ。息苦しくて、胸が内側から張り裂けそうになる。
発作のように襲ってきた黒い感情に心を焼かれながら、僕の意識は一睡も出来ないまま夜に溶けていった。真っ暗な夜。
まるで盲人の見る夢のようだった。
夜と朝の境目ほど、曖昧な時間はない。あれだけ濃密だった闇は、呆気ないほど簡単に生まれたての光にその座を明け渡していた。いつのまにか世界は輪郭を取り戻し、昨日と変わらない、そして明日も変わらないであろうその全貌を顕にしている。
夜の使者のように訪れた日下部は、小鳥が鳴き始める頃に帰っていった。「じゃあね」と軽く手を振って。恐らくは幾つかの葛藤を保留の棚に置き、幾つかの言葉を棄却の引き出しに、そっと仕舞い込んで――。
僕たちの夏休みが、今日から始まる――。