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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-82

「――シノ」

聞こえるかどうか試してみただけ、というような微かな声が僕を呼ぶ。あまりに小さい声だったので空耳かと思ったけど、「まだ起きてるよね」という言葉がすぐにそれを追い掛けた。

「起きてるよ」と僕は言った。
「さっきの話だけど」
「僕がいい人かどうかって話?」
「違う。その前」
「その前」
「私とセックスしたい?」

聞いた瞬間に、トクンと音を立てて脈拍が上がり、ポンプから送り出された血液がもの凄い勢いで全身を循環し始めた。体の反応とは対照的に頭は冷静で、二つ息をする間に言葉を用意する。

「16歳の男子にその質問はどうだろう。答えなんて一択じゃないかな」
「じゃあ、したいんだ?」
「欲求と願望は必ずしも一致するとは限らない、と思う。え〜と、つまり、君の体に興味がないと言えば嘘になるけど、そういうのは、もっと――」

僕は束の間言い淀んだあとで、慎重に言葉を続けようとした。自分は今、危うい状態にある。脆弱な理性と虚飾の自尊心に支えられただけの不安定な心を自覚する。

「――もっと、自分の体を大事にするべきだ?」

日下部が僕の台詞を奪い取る。

「そう、それ。月並みだけど」
「本当、シノはクソ真面目だね」

呆れたような、ほっとしたような、責めるような、笑うような――酷く混沌とした静かな声で彼女は言葉を紡ぐ。

「シノさ、下手すりゃずっと童貞だよ」
「不吉な予言をするな」
「それとも、もう経験済みだった?」
「下種な詮索もするな」

後ろめたい何かを隠すように、寝返りを打って背中を向ける。胸中でとぐろを巻いていた熱の塊が、かまびすしく騒ぎ始めた。理性を嘲笑うかのように、下半身が何かを期待してたぎり始める。

「どうして急にそんなことを」と僕は訊いた。
「別に。見返りもないのに優しくしてもらって、悪いかなって、ただそう思っただけ」

「だからって――」と僕は言葉を途切れさせた。溢れ出す感情に押された言葉が渋滞している。落ち着け。自分に言い聞かせる。

「だからって体を差し出されても困る。善意にいちいち見返りを求める奴だと思われたくない。馬鹿にしないでくれ」

必死で作り上げた、冷静な声。暫しの沈黙。やがて夜のしじまを、壊れそうな彼女の囁きが破る。

「うん。そうだね。ごめん。忘れて」

僕は、偽善者だ。黒い自己嫌悪が宿命的な染みのように体内をじわじわと侵食していく。胸を引き裂いて血肉ごと取り除いてやりたくなる。

自分の体を大事にしろ? 何をもっともらしいことを言っているのだろう。僕は単に自分が恥ずかしかっただけだ。そして意地になっているだけじゃないか。自分の汚い欲望を全て日下部に見透かされたような気がして、即席の“善意”でそれを隠匿してしまおうとする卑怯者だ。唾棄すべき自己欺瞞。度し難いまでの自己保身。
いつの間にか、僕は重大な勘違いをしていたらしい。沢崎や日下部とつるんでいる内に、何か自分まで特別な人間であるかのように錯覚していたのだ。そうじゃないだろう。本当の志野俊輔は、どうしようもないほどに凡庸な奴なのだ。自分ひとりでは夢も見れないし、退屈な常識から外れることもできない。傷付いた女の子ひとり癒してやることもできない。よこしまな気持ちを隠すために仮初めの善意を持ち出す偽善者なのだ。


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