凪いだ海に落とした魔法は 3話-81
いつからだろう。僕がこの人のことを好きになったのは。多分、期末テストの問題用紙を売ろうとしたあの日には、もう無意識の内に何かしらの接点を僕と彼女の間に作りたい、という欲求が生まれていたのではないかと分析する。あの日、教室で彼女と話をしたときには既に、僕の手元には充分な稼ぎがあったのだ。それまでは菊地を経由して、僕自身は影から計画を進めていたのに、どうして直接話を付けようとしたのだろうか。一筋の亀裂が全てをふいにしかねないのに、何故不要なリスクを冒してまで、さらなる利益を求めたのだろう。分かっている。その時既に、金銭よりも価値があるものが目の前にあると、僕は気付いていたのだ。
参ったな、と僕は思った。あの日下部沙耶だぞ。何というか、ジャンル違いの生き物だ。こんなに側にいるというのに、テレビの向こうのアイドルに本気で恋をしてしまったかのような、高揚感と虚無感を僕は同時に覚えた。
“楽しい”という感情を知らない人間は、単純な好意を越えた先にある熱情の存在を知っているのだろうか。楽しいと思うことと、誰かを好きになるということは、分かち難い何かで密接に結び付いているような気がした。
――好きになったところで、どうしようもない相手じゃないか。
目覚まし時計のアラームをオフにする。枕元でカチッと音が鳴り、日下部の瞼がそれに反応して開かれた。
「あ、悪い。起こした?」
「何してるの」
欠片程の感情も見せない渇いた瞳が、じっと僕を観察する。否、本当に僕を見ているのかどうかさえ分からない眼差しだった。拒絶も容認もない傍観者の視線。
「目覚まし。アラーム切るの忘れてたから」
僕はトランクから溢れる荷物を力ずくで詰め込むように、内心の動揺を全力で押し殺して言った。ほんの僅かな揺らぎで、僕の全てを見透かされてしまうような気がした。
「――そう。襲われるのかと思ったよ」
言葉の意味とは裏腹に、人形が頭の中に直接語りかけてくるような抑揚のない声だった。
「嫌なら帰れよ。客観的に考えると、そうなっても仕方がない状況だと思うんだ。我ながらお人好しにもほどがある」
「今更そんなことを言い出すのは、ズルいんじゃないかな」
「確かに。僕も、最後まで“いい人”でいたいと思ってる」
「そう思えるだけでも、悪い奴じゃないよね」
「人を騙して金稼ぎしていたのに?」
「ああ、そう言えばそうか。いい人ほど黒く染まり易いのかもしれないね。じゃあ、それは沢崎のせいにしよう」
「そうか、うん。全部あいつのせいだ」
僕は笑った。それを見て、日下部はまた瞳を閉じる。そうだ。あいつが悪いんだ。どうしようもなく退屈な日々に、何とか折り合いを付けながら暮らしていた僕をわざわざ叩き起こして、おまけに悪事にまで引っ張り込んで、日下部沙耶とこんな関係になって――。
悪いのは沢崎だ。叶わぬ恋の呼び水になるなんて、何て残酷なことをしてくれたんだろう。あまりに理不尽な憤りが僕を苛める。何より、日下部のことも沢崎のことも、今更嫌いになれるはずもないという事実が苛立たしかった。人間関係の損得を勘定して、心の平穏のために取捨選択することができたなら、どれだけ楽になれるだろう。
音を殺してひとつ溜め息。でも、鳩尾辺りに生まれた異物感は消えてはくれなかった。テレビを消して、逃げ込むようにタオルケットを被り、眠りの中に沈もうとする。耳を澄ませば絹の擦れるような少女の吐息が微かに聞こえ、それは僕の心に静かな波を立てた。今日は眠れないかもしれない。時計の針を聞き取ることに意識を集中させた。カチ、カチ、カチ。羊の数を数えるように、ゆっくりと睡魔の訪れを待ちわびた。