凪いだ海に落とした魔法は 3話-73
「どうして。そこまで人を嫌いになるには確かな理由があるんだろ」
日下部は小さく息を吐いた。感情を噴出させるような溜め息ではなく、許容量を越えた分だけを吐いて捨てるような溜め息だった。
「あいつは、母さんのカウンセラーだった女なの」
「カウンセラーって、心理学で人を癒す、みたいな奴? 精神科医みたいな」
「臨床心理学。でも、そんな大した人じゃないよ」
日下部は嘲るように、鼻だけで小さく笑った。
「知ってる? カウンセラーって免許とか資格とか要らないんだよ。学校だって出なくていいから、独学だって構わない。名乗ろうと思えば誰にだって名乗れるんだ」
「そう。で、どんな人? 母親候補は」
「普通よ。基本的には弱いけど、強い部分は隠してて、男に保護してもらおうと考えてる。そんな普通の女」
「それが気に入らないわけではないんだね」
「ええ。問題は、さっきも言ったように、あいつが母さんのカウンセラーをしてたってこと」
日下部はテレビの画面を茫洋とした目で見詰めながら言葉を紡いだ。瞳の焦点はテレビにではなく、“あいつ”と呼ばれる女性に向けられているのだろう。虚ろな眼差しなのに、怒りの色だけははっきりと見て取れた。
「ねえシノ、考えてもみて。自分の母親が、心を病んでいたとしてさ」
「うん」
「それで、カウンセリングを受けることになったとする。その先生が三十路には少し手が届かないくらいの若い女だったとする。まあそれはいいわ。本当はカウンセリングなんて必要ない、と言うより、意味がないんだけど、周りは私たちのことを精神病患者としか思ってないのだから。先生が若い女だってことも、それは、別に悪いことではない」
僕は頷いた。“楽しい”という感情を抱くことの出来ない病気があるなんて、聞いたことはない。普通は信じないし、信じたとしても、そこから精神の病を疑うのは、当然の反応と言える。
あれ。じゃあどうして僕は日下部の話を信じたのだろう、という疑問が受かんだけれど、ひとまずその問題は脇に追い遣った。
「先生が熱心に、真摯に治療を施したとする。それでも病気は治らない。どんな心理学的な治療法を試みても、母さんは“楽しい”という感情を知らないまま。でも、それも先生が悪いわけじゃない。誰のせいでもない。あえて悪者を挙げるとしたら、そんなわけの分からない呪いを母さんと私にかけた、神のクソ野郎よね」
日下部はそう言って、自嘲的に笑う。
「でも、そうはならなかった。君は先生を憎むことになった」と僕はその先を促した。
「うん。いつからだろう。あいつと父さんの仲が、怪しくなった」
「それって――」
順番が変だ、と僕は言おうとしてから、日下部の沈んだ顔を見て、声を飲み込む。
「気付いたのは、母さんより私が先だった。直接的な関係があったわけではないと思う。でも、分かるでしょ。そういうのって、心が動いただけでも、普段の言動に表れるから。もしかしたら、本人たちより私のほうが早く気付いたのかもしれない」
自分が誰かに心惹かれていて、それを自覚するより早くに、周りの誰かがその想いに気付いている。そういうこともあるのだろう。
「母さんが気付く前に、私が何とかすればよかった。意味のないカウンセリングなんてやめさせて、あいつと父さんを引き離すことだって、その気になれば出来たはず」
日下部は臍を噛むような面持ちで俯き、目を細めて自分の膝小僧を見詰めていた。僕は黙って言葉の続きを待っていた。夜の不安を凝縮したような濃密な時間が二人の間に流れていた。