凪いだ海に落とした魔法は 3話-70
日下部から電話が掛かってきたとき、僕はテレビ放送されていた一昔前のアクション映画をぼんやりと鑑賞していた。映画は火薬の量と比例して面白くなるものだと盲信しているような代物で、さしたる意味もなく人が死に、さしたる意味もなく建物が炎上して、さしたる意味もなく主人公がヒロインを抱いていた。つまり、僕はさしたる意味もない時間を蓄積していたわけで、携帯電話の着信音が聞こえたときも、別段、気を害したりはしなかった。夜の電話というのは付け合わせのグリーンピースみたいに空気の読めない奴で、鳴って欲しくないタイミングで鳴るものなのだが、今夜は違った。何事にも例外はある。映画は退屈だったし、それ以上に、携帯電話のディスプレイには“日下部沙耶”と表示されていた。映画のクライマックスなんて、もうどうでもよかった。
「もしもし」と努めて平静な声で僕は電話に出た。
『シノ。今何処にいる?』
テレビのスピーカーから流れる台詞より、一際小さな声。それでも、その懐かしい声の響きは、枯れた大地に染み入る滋雨のように僕の耳を打った。
「家だよ。どうしようもないほど退屈な映画を観ているところ」
『ああ、そうなの、か』
日下部は消え入りそうな声で呟いたあと、急に何かが喉に突っ掛かったように言葉を途切れさせた。
「どうかした?」と僕は訊いた。
『ええ、うん。ねえ、シノ。今からそっちに行ってもいいかな』
彼女は無理矢理声を押し出すようにして言葉を続ける。何か事情がありそうだったし、事情がなくても、僕に断る理由はなかった。
「構わないよ」
『本当に?』
「つく必要のない嘘はつかない」
『ああ、そうだよね』
電話越しに、彼女が安堵したように、小さく息をついたのが分かった。心臓よりも深い所で、何かがほんのりと温かくなった感覚がした。悪くない体感だった。
「夜道だし、バイクで来るなら気を付けて。場所は覚えてるか」
『ええ、大丈夫。二十分くらいで着くと思うから』
「分かった」
『ねえ、シノ』
「うん」
『何も訊かないの? どうして学校に来なかったのかとか、どうして急に家に行きたいなんて言い出したのか、とか』
常とは違って、彼女の口調は部屋に置き去りにされた仔猫のように頼りなげだった。明日にでも自分が捨てられるのではないかと怯えているような弱々しさがある。顔が見えないせいで、声質の輪郭がいつもよりはっきりと感じられるのかもしれない。いつものように表情の乏しい顔で、弱りきった声を絞り出す日下部の姿を想像すると、僕は少し悲しくなった。女の子は、寂しいときには寂しい顔をするべきなのだ。
「どうしてかは気になるし、言ってくれるなら聞くけど」
『気を使ってる?』
「まあ、そうかもしれない」
『そう。ありがとう』
幾分、柔らかい口調で彼女は感謝の言葉を述べた。
『じゃあ、もう携帯の電池が切れそうだから――』
「分かった。気を付けて」
『ええ。ありがと』
電話を切って、僕は映画の続きを観た。主人公が敵のマフィアに追い詰められている。親友の警官が助けに来てくれたと思ったら、彼は裏切り者で、マフィア達と一緒に主人公を嘲けり始めた。絶対絶命のピンチにヒロインが颯爽と駆け付け、スカートをはためかせながらサブマシンガンを乱射する。僕はテレビを消した。
部屋をぐるりと見渡して、特に掃除をする必要がないことを確認する。椅子に座り、机の上の文庫本を手に取り、ぱらぱらとページを捲る。本を元の位置に戻して、立ち上がり、ベッドに腰を掛け、またテレビを付けた。言うまでもなく、今の僕には落ち着きがない。映画はラストシーンを迎えていた。炎蛇の如く蜿々と燃え上がる廃工場を背景に、主人公とヒロインがキスをしていた。どうしてそうなったのか、観ていなくても想像は容易にできた。