凪いだ海に落とした魔法は 3話-7
「ああ、腹立つ」
日下部はそう言うが、言葉の割りには無表情だった。
「何が腹立つって、騙された奴に騙されたってのが、苛々する。それじゃモブみたいでしょ」
「モブ?」
「端役って意味。ゲームか何かに出てくる、名無しのAさん。物語を動かすことのできないエキストラ」
なるほど。
「ねえ、あなたはこの計画を実行しているとき、どう思ってた? 自分のことをモブだって、そう感じてた? 違うよね。自分は監督する側で、私たちは脚本通りに演じる役者。それも、誰もが物語に深く関与することのない端役だって、そう思ったはず。それは、あなたにどんな感情をもたらしたのかしら?」
氷が滑るような抑揚で、彼女は問い詰める。それだけで刃物を突き付けられながら尋問されているような気がした。声も、視線も、眼差しも、何もかもが鋭く尖っていた。
「結局は僕も演出される側だったわけだけどね」
「それでも役名くらいはあったはずよ。匿名強制のモブではない。それで、どうなの?」
僕は、どんな気持ちだっただろうか。
沢崎の家でビールを飲みながら話を持ちかけられたとき。
家に帰って計画の絵図を頭に描いていたとき。
その計画を菊地に持ち掛けたとき。
罪悪感と不安感。その感情を超えた何かはなかったか――。
ああ――確かにあった。
「楽しかったよ」と僕は言った。
日下部はその言葉の形を計るようにじっと目の前を見詰めていた。まつ毛の長い涼やかな目元が少しだけ細まって、彼女の精緻な顔立ちに理知的な彩りを添える。
「楽しかった――? こんな馬鹿げたことが?」
その言葉が含む辛辣さに軽い反発を覚えながら、それでも正直な反応を示すのなら、頷くしかなかった。
「ああ。僕は楽しかったんだと思う。それが素直な感想」
「――そう。楽しかったのね。結局はそこにいきつくわけか」
口にした言葉で自分の考えを改めて確かめるように、ゆっくりと彼女は呟いていた。難解なロジックを導き出そうとする女学者の風情。白衣を着ても似合うかもしれない、と暢気なことを僕は思った。
「楽しかった――か」
「それが、何か?」
「別に。ああ、でも、うん。そうか、楽しいのか。まあ、普通はそれだけでも――」
うわ言のようにブツブツと呟き、顔を伏せる日下部。一体どうしたというのだろう。
「馬鹿げたことだからこそ楽しいってことが世の中にはあると思うよ。馬鹿馬鹿しいってことはつまり、普通ならやらないって意味だろ。まあ、そういうことを試してみればさ、新鮮だし、常識と非常識のギャップを味わえると思う。そういう意味で楽しかったと言ったんだけれど」
日下部はおとがいに手を当てて小さく頷いた。
「ああ、そうか。なるほど。誰もやらないようなことか。それならもしかして――」
何やら一人で納得しているらしい。彼女は自分の世界に引き込もり、ぶつぶつと消え入るような声を漏らしていた。
「しかし暑いね」と僕は言った。
返事は返ってこない。僕の声など意識の外に追い遣り、彼女は思考の海にダイブしていた。