凪いだ海に落とした魔法は 3話-68
「ハッ。分からねえか。まあいいさ。自分で自分につく嘘ほど見抜けない嘘はない」
「お前は自分が何を言ってるのか自分で分かってるのか。僕には分からない。ネズミのクソほどにも分からない」
「やれやれ」と沢崎は苦笑して煙草の灰を足下に落とした。
「ところで志野、もうバイトは見付けたのか。日下部の件もいいが、俺らの計画が滞るのは困る。今年中には免許取らないとな」
「ああ。前から目を付けてたやつがあって、こないだ市役所に電話してみたよ」
「市役所?」
「小学校のプールの監視員。夏休みに解放してるだろ」
「ああ、あれね。時給は?」
「千円。面接に受かったら、救命講習受けて、夏休みから20日間。多分10万近くになる。沢崎は?」
「うちは自営業だからな。仕事毎日手伝うさ」
熱気をスポンジで吸い取ったような生温かい風が、煙の匂いを拐って流れていった。日に日に強まるセミの鳴き声が鼓膜に痛い。少し顔を上げただけで、暴力的な日差しに思わず目を細めしまう。
「明日は来るかな、あいつ。土曜からは夏休みなんだぞ」
半ば独り言のような調子で僕は呟いていた。
「ああ、だから焦ってんのか。なるほどね。一ヶ月は長いからな」
また何やら沢崎が笑っていたが、もう無視することにした。
金曜日の朝。日下部沙耶の不在記録はまだ続いていた。今日は終業式だというのに、三日連続で欠席する気なのだろうか。
夏休みを目前に控えて、教室の雰囲気は最高潮を迎えているが、僕の心情はそれどころではなかった。もしこのまま、午後になっても日下部が来なかったら、流石にメールのひとつでも送ってみようか、と考える。しかし、特に用もないのに女子と連絡を取ろうとする行為には、若干の抵抗を覚えてしまう。それが何だか男らしくない行為であるという、骨董品のような価値観が、僕の行動意思を妨げていた。
一時間目の授業が終わり、教科書を片付けていると「志野くん」と声がかけられた。
「ああ、白川か」
「沙耶、今日も休みなのかな」
「連絡は?」
「メールは送ったけど、返事がこないの」と、白川は表情を沈ませた。
「そう」
返信をしたくないだけなのか、あるいは送れない状態にあるのか、気になるところだ。
「まったく。終業式だって言うのにね」
彼女は一抹の呆れを孕んだ優しい笑みを浮かべた。「しょうがない娘よね」と語るような、理解と諦念を混合した眼差し。横着で我が儘な姉を持った妹みたいな表情だった。
「今日もこなかったら、あとで僕も連絡してみるよ。終業式が終わってから通知表だけ受け取りに顔を出すなんてことも、あいつならやりかねないけどね」
「そうね」と白川は控え目に笑い、神経質そうな仕種で右耳のファーストピアスに触れた。不可視の繋がりがそこにあることを確認するような仕種だった。