凪いだ海に落とした魔法は 3話-50
「友情があれば無条件で信頼できるなんて僕は言わない。友好関係は利害の外側にあるもので、内側に入ってきたら容易く壊れることもあるだろう。客観的に考えて沢崎が真犯人だというなら、わざわざ否定したりはしないよ。悲しいとは思うけどね」
彼女は少しの間、僕の声の形をなぞるように視線を宙に彷徨せていた。やがて桃色の唇を開き、柔らかに言った。
「リアリストなんだね、志野くんって」
囁くような声には憐れむような響きが混ざっていた。その憐れみも自分を飾るための演技なのだろう。
「神経が鈍感に出来てるだけだよ」と僕は笑った。
僕たちは僅かの間、耳を澄ませるように沈黙した。聞き逃してはならない何かを待ちわびるような沈黙だった。締め切った窓を越えてセミの鳴き声が聞こえた。
「そういうことなら」やがて彼女は沈黙を破る。
「私と一緒に、沢崎くんに会ってくれる?」
指の先で髪をいじりながら、惑わすように、白川慧は笑った。
それは、いつかの日下部沙耶と同じ台詞だった。
「え?」と思わずぎこちない笑みを浮かべてしまう。
「だって、ひどいじゃない。騙すなんてさ」
それは沢崎ではなく、僕に言っているように感じられた。眼前の少女が急に五歳分の年齢を重ねたような印象を僕は受ける。
「会ってどうするの?」と僕は訊いた。
「う〜ん。お金を返してもらう?」
「素直に返すような奴じゃないよ」
「だって、悪いのは彼なんでしょ? これって弱味にならないかな」
「あいつのことを先生たちに知られたら、僕たちだってまずいだろ。不正なやり方でテストを受けた」
「そうかなあ」
「そうだろ。違うとでも?」
「う〜ん」
白川慧は産まれたてのリスの子供みたいに潤んだ目で僕を見る。
「だってさ、私ちゃんと勉強したよ。カンニングしたわけじゃないもの。あらかじめ問題は分かってたけど、答えは自分で調べて、記憶して、それでテストを受けたのよ。誰かが用意した答えを持ち込んだわけじゃないわ。れっきとした“努力の成果”じゃないのかなあ。ねえ、これってそんなに悪いことなの?」
まるで呪いのマスクを被ったみたいに、彼女は笑顔を絶やさなかった。命が尽きるまで本当の表情を見せられないかのようだった。僕は何だか試されているような気分になる。そして、白川慧が見せた新たな一面に気後れしていたことも認めなくてはならない。
「その理屈は公平さを欠いているよ。テストには点数という絶対評価だけじゃなくて順位という相対評価も表れるんだ。僕たちはあらかじめ問題を知っていて、他の人は知らなかった。それを含めて“努力の成果”と言ってしまうのは競争原理に反している。つまり、フェアじゃない」
「でも、結局あの問題は嘘っぱちだったわ」
「結果論だけで罪の有無大小が決まるなら裁判はいらない」
彼女は天井を見るように顎先を上げて思考する。陶磁器みたいに白い喉が目に付いた。
「そっか。そういう考え方もあるかあ。志野くんって真面目なのか不真面目なのか分からないね」
「不真面目だよ。所詮自分に火の粉が飛ぶのが怖いからこう言ってるだけだからね。悪いけど、沢崎に会うだけ無駄だと思う。僕は無駄なことはしたくないし、やるなら君一人で頼むよ」
僕は“もうお手上げだ”という感じで肩を竦めて見せた。これでいい。様々なリスクを背負った上で、一人沢崎に詰め寄る勇気は彼女にはないだろう。
「なるほど」と彼女は人差し指を唇に当てて考えている。
そうだ。考えろ。損のないことだけを考えろ。君は3千円の損をしたかもしれないが、これ以上首を突っ込んだらまた損を重ねることになるぞ。分かるだろ、白川慧。
人差し指に触れた唇をすぼませて「う〜ん」と考える仕草は可愛らしかったが、彼女が見掛けほどバカな女でないことはもう分かっている。「よし」と何かを決断したように言って、白川慧はまた微笑む。白川慧的微笑。