凪いだ海に落とした魔法は 3話-37
『もしも〜し。今何してる?』
「電話してる」
『ねえ。そういうの要らないから。突っ込むの面倒だよ』
「俺も面倒だよ。何かもう色々とね。よし。電話切ろうか。お互いのために」
『君さ、もっとノリよく生きてかないと、友達なくすよ。顔がいいだけでちやほやしてくれるのは若いうちだけなんだからね』
小言を聞かされるために電話に出たわけではない。沢崎は目を細めて空を睨み付けた。
「年寄りの説教なら足りてるよ。俺の周りは若さを羨む大人ばかりだな」
『なんの話? ていうか、私まだ21だよ。年寄りじゃないさ』
「あのさ。その様子じゃ、用もなしに電話をかけてきたみたいだよね。ちなみに、声が聞きたかったとか、お喋りしたいからとか、そういうのは用の内に入らないから。男にとってはね」
『ああ、もう。ホントに君は顔だけ野郎だ。顔しか価値のない男だ。甲斐性なしだ。もう顔面だけで生きてたほうがいいよ。ねえ、そうしなよ』
いつにも増して面倒臭いテンションだな、と沢崎は思った。やはりお互いのために電話を切るべきだろうか。
「意味が分からない。酔ってるのか?」
『酔ってないよ〜』
「いいや、酔ってるね。家の事情で酔っぱらいの声は聞きなれてるんだよ、俺は」
『私をっ、酔わせてっ、どうするつもりっ?!』
「どうもしねえよ。そして酔わせたのは俺じゃねえよ」
沢崎は絞り出すような溜め息をつき、煙草の紙箱をひょいと振って一本口にくわえた。携帯を肩と顔の間に挟み、空いた両手で火を付ける。
「まあいいや。丁度さ、あんたに聞いてみたいことがあったんだよね」
紫煙を生温い夜風に乗せて吐き出した。浮遊感。ニコチンがじわりと血中に染み込むのを感じる。
『おっ、なになに? 女の秘密に踏み込む気かい?』
「や、悪いけど酔っぱらいの話じゃなくてさ。日下部沙耶って知ってる? うちの学年じゃ有名人らしいんだけど」
『うわ、何。いま他の女の話する? どういう神経?』
「知ってるの? 知らないの? あんたの話は今度ゆっくり聞くからね。今は日下部沙耶の話をしようよ」
おざなりな口調で話を進め、せわしなく煙草を吹かす。気を抜くとすぐ説教臭くなってくるな、と沢崎は端正な顔をしかめた。大人の酔っぱらいはこれだから面倒臭い。もっとも、酔っぱらいとは皆大人であるべきなのだ。少なくとも日本においては。
『くさかべさや。もち知ってるよ。有名だよね。えっ、君もしかして――』
「違うよ。で、どんな奴?」
『どんなって、噂通りだよ。授業中しか知らないけど。いっつも寝てたり、窓の外見てたり。まあ、良くも悪くも目立つよね。良くもっていうのは、外見的にって意味で、悪くもっていうのは、生活態度的にって意味。あっ、そういう意味じゃ、君と一緒じゃん。仲間じゃん』
沢崎の心中が、一抹の苛立ちにざわめいた。自分と日下部沙耶に共通項があることは認めざるを得ない。だが、それを認めることに抵抗感があるのは何故だろう。何かが脅かされるような、曖昧模糊とした不安感を覚える。
「ねえ。そいつさ、楽しそうにしてるとこ、見たことある?」
『何それ?』
「楽しそうにだよ。笑顔だったり、うきうきしてたり、端から見ていて、楽しそうにしてるなって思うこと。変な質問なのは分かってるけどね」
『う〜ん。そう言えばないかなあ。彼女、友達いなそうだし。一匹狼って感じだよね』
煙草をアスファルトに落とし、靴裏で揉み消した。
「それがブラフだって思ったりはしないか。つまり、気丈に振る舞ってはいるけど、中身はそこらの連中と一緒だってさ。ほら、同性はそういうの見抜くの得意だろ。女の目から見てどうかな」
狼の皮を剥いでやりたい。そんな嗜虐心が沢崎の血を冷やしていく。皮の下に隠れているのは青白い筋肉か、それとも気勢を張った小さな猫か。