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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-31

「シノ。あそこ、入るよ」

突然、日下部はそう言って前方を指差した。その先を目で追うと、そこには古色蒼然とした佇まいの小さな店があった。時の歩みに置き去りにされて不貞腐れたような駄菓子屋だった。僕の記憶にはないはずなのに、幼年期に硬貨を握りしめて駄菓子を買う自分の姿が容易にイメージできる、そんな懐かしさを感じさせる店だった。
そうすることを前もって決めていたように、迷うこともなく日下部は駄菓子屋に入った。店前に設置された古臭いゲームの筐体や、十円玉で動くボロボロのピンボールマシーン。塗装の剥げたベンチ。そんな物を懐かしく眺めながら、僕も店内に入った。狭苦しい店の中も、懐古を誘わずにはいられない光景だった。木箱の上には合成着色物をふんだんに使った駄菓子が並び、一枚一枚が小袋に入ったカードやブロマイドが束で吊るされていた。近所の小学生にとっては楽園のような場所だろう。

「ああ、いらっしゃい」

店の奥から人の良さそうな老婆が顔を出し、ゆっくりとレジの椅子に腰を下ろした。小さな背丈に曲がった腰。生活感の染み付いた割烹着。いかにも“駄菓子屋のお婆ちゃん”といった風情の店主だった。
日下部はきょろきょろと周囲をこうべを巡らし、やがて壁際に置かれたアイスの冷凍ケースに目を付けた。蓋を開け、中から水色の袋を取り出す日下部。

「お婆ちゃん、これいくら?」
「八十円だよ」

女の子らしさに欠ける黒い皮財布から小銭を取り出し、「はい」と言ってそれを渡す。心なしか、学校にいるときよりも態度が柔らかいようだ。

「はい丁度。ありがとね」
「どうも。シノ。行くよ」
「え、ああ、うん」

僕も何か買おうかな、と思っていると、日下部がさっさっと店を出てしまった。あなたに買わせるものは何もないと言わんばかりの態度。犬か幼児にでもなった気分になる。彼女は雪印牛乳の文字が大きく入った水色のベンチに腰を下ろし、買ったばかりのアイスの袋を開けた。次いでちらりと僕を見て、隣の空間をちょんちょんと指差した。

「座れば?」
「はあ」

言いたい言葉を飲み込んで、言われるまま彼女の隣に座る。体重の負担から解放され、脚がふわっと軽くなった気がした。随分と歩かされ、疲労が溜まっていたらしい。半日振り位に腰を下ろした気がした。

「あげる」
「え?」

見ると、日下部がアイスの半分を差し出していた。真ん中で二つに折れる棒付きのアイスキャンディーで、ソーダ味のやつだ。懐かしい。

「犬の餌?」と僕は訊いた。
「ご褒美じゃなくて、お詫び」
「お詫び?」
「そう。何だか、苛々しているように見えたから」
どうやら彼女なりに気を使ってくれているらしい。僕はかぶりを振って応じる。
「してないよ。苛々なんて」
「嘘だ」
「だとしても、これで機嫌直った」

アイスを受け取り、一口齧った。シャリッとした食感と、懐古心を刺激する人工的な清涼感が口の中に広がった。ああ、そういえばこんな味だったな、と懐かしみながらアイスを食べる。


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