凪いだ海に落とした魔法は 3話-30
「ねえ、シノ」
「何だよ」
「あいつは? いないの?」
「沢崎のこと?」
「そう。そいつ」
「忍者みたいに尾行しているとでも思ってるのか。いなかっただろ。始めから」
それを今更訊くのか、と呆れながら僕は答える。やっと言葉を発したと思ったら沢崎のことか。胸の中に軽い反発心が生まれる。
「そうじゃなくて。あなたたち、いつも一緒にいるわけじゃないのね」
「クラスも違うし。いつもべったりってわけじゃないよ」
「ふうん。そう」
「そうですよ」
「なに? 怒ってるの?」
「別に」
それっきりだった。日下部はまた沈黙の中に身を置いて、ひたすら長い脚を交互するだけのウォーカロイドと化した。
神社の敷地を囲む樹木が長い日陰を作り、塀沿いに歩く僕達に僅かな涼をもたらしていた。まるで実体と質量を持っているかのようにビビットな夏の日差しが、頭上に張り出した樹木の枝の影を路地の地面にまだらに散らせている。そのコントラストはまるで地表に描かれた前衛的な模様のように僕には見えた。トリックアートみたいに、目を眇めて見ると何かしらの絵が受かんでくるような気さえした。
すぐ真上からセミの震わせた空気の振動がシャワーのように降り注ぎ、僕たちの鼓膜に夏を刻もうとしている。
何なんだ、この状況は、と僕は改めて思った。期末テストの不正という弱味を握られた僕と沢崎は、“楽しい”という感情を日下部沙耶に教えることを条件に、その口止めに成功した。何をしても楽しいと思えない彼女を楽しませること。それが僕たちの任務である。それは理解しているのだが、この状況はどうなのだろう。会話もなく、ただ汗だくになりながら歩き続けたその先に、心踊る何かが待っているのだろうか。そうは思えなかった。現に僕はまったく楽しくはないし、僕でさえ楽しくないことが、日下部の琴線を揺らせる道理がない。
あるいは、非常識の塊である沢崎ならば、何かしら破天荒なアイディアのひとつでも捻り出してくれるのかもしれない。そもそも、日下部が僕たちに目を付けることになった切っ掛けも沢崎なのだ。彼の考えた馬鹿に付き合わされた結果として、僕は日下部と話すようになり、こうして側を歩くような関係になったのだ。
ああ、そうだったな、と僕は納得する。日下部の目的を達成できるのは沢崎のほうであり、言わば、僕はそのおまけである。すべての始まりは沢崎拓也にあるのだから、この場に彼がいないことを日下部が不満に思うのは当然のことなのだった。
日下部は道の上に置かれた不可視の線に引き寄せられているかのように黙々と歩き続けた。背筋を真っ直ぐに伸ばして、頭を上げてオートマチックに闊歩していた。僕もまたその後ろ姿に引っ張られ、意思もなく、無目的に足を運び続けた。凱旋する有能な女将校と従順な付き人といった趣だった。その間、彼女はただの一度も立ち止まらなかった。余所見もせず、何処かの目的地に向けて一心に歩き続けているようだった。孤独な少女を撮したロードムービーの単調な1シーンのように、夏の風景の中を、日下部沙耶は只々歩き続けていた。それでも、彼女は孤独ではなかった。その証拠に、彼女は時々、僕がちゃんと付いて来ているのかを確認するように後ろを振り返った。その度に、僕は散歩する猫を追跡しているような不思議な気分になった。これから何処へ行くのだろうかという好奇心と、それを見守る細やかな使命感。彼女は五メートルほど後ろを歩く僕の姿を確認すると、「別にあなたなんかに興味はないけれど」とでも言うように、素っ気ない顔をしてまた前を向くのだった。それを何度も繰り返した。人通りの少ない道を辿り、いくつもの角を曲がり、坂を昇ると、いつの
間にか僕はまったく土地勘のない道を歩いていた。街の喧騒から隔離された静かな場所だった。車もほとんど通らず、目に付く木々の緑が多くなっていた。息を深く吸ってみれば、微かに潮の香りがする。