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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-29

「私を置いて帰るつもり?」

責めるようなトーンで放たれた言葉が、僕の体感温度を下げる。いきなり何を言い出すのだろう。

「えっと、それはどういう」
「あなたにはやるべき仕事があるでしょう」

こっちが喋り切る前に、日下部は僕の手首を掴んで引っ張った。突然の出現と行動に慌てた僕は「お、おい」と弱々しい抗議の声を上げる。あんぐりと口を開けた原口が、状況の説明を求めて僕を見ていた。

「ああ、いや、これは」

渋滞する僕の音声。日下部は僕に言葉を整理するいとまを与えてはくれなかった。

「何よ」

原口の視線に気付き、挑戦的な声を彼にぶつける日下部。原口は「何でもございません」と言うようにぶんぶんとかぶりを振った。

「こいつ、私のだから。持ってくから」

本当に何を言っているんだこの人は。コイツワタシノダカラモッテクカラ?
傲慢な物言いに圧倒され、従順に頷く原口。不良にからまれたような反応だが、実際にからまれているのは僕のほうだ。というか、どうして僕は物扱いされているのだろう。
人の都合や疑問など空き缶のように蹴飛ばして、日下部は僕の手を引いて歩き出した。同じクラスの男子生徒とすれ違い、僕が振り返ると、彼もまたびっくりした顔でこちらを見ていた。彼の気持ちは良く分かる。日下部沙耶に手を引かれるなんて、僕だってびっくりしているのだ。

校舎を出ると、日下部はようやく手を離してくれた。僕の手首には彼女の手の柔らかさがまだ残留していた。そのまま大事に保存したくなるような感触だった。

「あのさ、君はもう少し周りの目を意識するべきだよ。行動はもちろんだけど、その、発言も」

それが無駄な忠告であることは承知の上で僕は言った。彼女の存在は噂の種で、それはすぐに発芽するのだから。
「周りの目を意識してるだけじゃ、周りが作り上げた自分にしかなれないよ」

案の定、僕の苦言など意に介さず、彼女は背中を向けて数歩先を歩き出した。

「そんなことより、何を普通に帰ろうとしているの?」

振り向きもせずにそう訪ねる彼女の後ろ姿を、僕は恨みがましく見詰める。

「それは僕の勝手だろ」
「あなたには私を楽しませるという仕事があるでしょ。早速サボるなよ」
「そうは言われても」と僕は言い淀んだ。

日下部沙耶を楽しませるために何をすればいいのやら、検討も付いていないのだ。その方法とはつまり、凡庸を非凡に変質させる錬金術であり、無から有を生み出す魔術である。ステッキをひょいと一振りすればお披露できるというわけでもないのだから。

「もういい。行くよ」と彼女は言った。言葉とは反対に、その足取りは僕を置き去りにする気かと思うほど速かった。

「行くって何処に?」
「何処でもいい」
「楽しそうな場所?」
「それを探すの」

僕は溜め息をついた。日下部にちゃんと聞こえるように。君に振り回されて苛々しているんだぞという無言のアピールは、颯爽と歩く後ろ姿に弾かれて虚しく消えていった。
渋々と、彼女の後に就いて歩みを進める。国道沿いを辿って、繁華街に入ったと思ったら通り過ぎ、やがて大通りから外れ、住宅街を抜ける。まるで街中の道程を踏破すること自体が目的であるかのように、僕たちは汗をかきながら淡々と歩き続けた。やがて閑静な路地に入り込み、どうしてこんなことになったのだろうかとか、この行為に何の意味があるのだろうかとか、考えるのにも飽きてきたころ、ようやく日下部は口を開いてくれた。


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